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佐藤一郎
(高17回生)
<プロフィール>

 1946年宮城県古川市七日町に生まれ、以後高校卒業まで仙台市中島丁で育つ。
小学校時分は、広瀬川をまたぐところまでが友達と遊ぶ空間であり、
よく二高工程まで出かけ、野球部練習を飽かずに眺めていた。
・東北大学教育学部付属幼稚園(1951−53)
・東北大学教育学部付属小学校(中島町校舎)(1953−59)
・東北大学教育学部付属中学校(1959−62)
・仙台第二高等学校(1962−65)
 仙台第二高等学校までは北田一浩君と毎日徒歩で通った。一年次から美術部に
入り、二宮不二麿先生から油絵の手ほどきを受ける。二年次冬に画家になろうと
決心し、同時に応援団副団長になり、三年次には文化系クラスに移り、
東京芸術大学を受験するが、不合格。
・すいどうばた芸術研究所(1965−66)
・東京芸術大学美術学部絵画科油絵専攻(脇田和教室)(1966−70)
・東京芸術大学大学院美術研究家油絵修士課程(中谷泰教室)(1970−72)
・ドイツ学術交流会(DAAD)留学生としてハンブルグ美術大学に在籍
(1973−77)
・東京芸術大学美術学部講師(油絵技法材料研究室)(1981−85)
・東京芸術大学美術学部助教授(1985−98)
・東京芸術大学美術学部教授(1999−)
 今年まで宮城県美術館石膏管理委員会委員を務め、現在宮城夢大使である。


<シンポジウムでの意見の要旨>

 「日本の芸術を研究してみると、明らかに賢者であり、哲学者であり、知者で
ある人物に出会う。・・・・・かれはただ一茎の草の芽生えを研究しているのだ。
 ところがこの草の芽がかれに、あらゆる類いの植物、つぎには季節、田園の
広々とした景色、そして動物を、人間の顔を描かしめるのだ。・・・いいかね、
かれら自身が花であるかのように、自然の中に生きるかくも素朴な日本人が
われわれに教えるものこそ、ほんとうの宗教といえいるのではないだろうか?
・・・ぼくは日本人がその作品のすべてにもっている極度の明確さをうらやましく
思う。
 けっして退屈な感じをあたえないし、大急ぎのやっつけ仕事のようにもみえない。
 かれらの仕事は呼吸するように単純で、チョッキのボタンをかけるように、
簡単に、楽々と、二、三本の線で人物を描いてしまう。ああ、ぼくもわずかの線で
人物が描けるようにならなければ・・・・・」
(書簡五四二)という、ファン・ゴッホの言葉をかみしめてみたい。


<後輩の二高生に望むこと>

 私の高校時代をふるかえると、漠然とした将来への不安があり、幼き頃から憧れて
いた東北大学受験にこのまま突っ走る決断がつかなかった。
絵を描くことは、自分の眼と頭と手だけで自己表現でき、生きる意味を純粋に
問うことができる。
このような思いが、私をして画家志望にかりたてたのだろうと思う。
美術教師二宮不二麿先生への限りない信頼感が精神的にバックボーンになった。
 生徒会の表の顔に対して、応援団の裏の顔ではあったが、実質的に学生全員の
支持を取り付け、応援練習が授業時間帯に食い込んでも、教師は口を挟むことが
できなかった。
そこには、暗黙の了解が存在し、ひとつの共同体の運動としての一体感が醸し
出されていたように思う。
「思い出」は、浄化、美化されてしまうが、そこには旧制中学からの伝統的
男子校としてのプライドが残っていたように思う。
しかし、現在は現在の高校生活があり、われわれは違う価値観が生み出されて
いると思うし、そこから生まれる一つの共同体としての運動が学生一人一人の
参加によってより活性化することになるだろうと、思っています。
 東京芸術大学は、芸術家養成のための大学を目指し、音楽・美術の実技を中心
としていますが、情報化社会に対応するべく、研究・教育体制を整備している
最中です。
そこでは、デジタル的表現技術をも取り込み、かつ新しい表象学といわれる学問
領域をも視野に入れてます。
マルチ・メディア時代に生きる人間の表現活動全般に興味を持つ、科学的・
工学的資質の学生にも門戸を開いている大学です。
とても小さな大学ですが、学生と一緒になって新しい芸術表現を模索すると
同時に、これまでの芸術表現のさらなる深化をもこころざしています。
最近どういうわけか、東北出身の学生が非常に少ないのです。
芸術・文化にたずさわる後輩が一人でも二人でも出現することを願い、
そのような人は是非東京芸術大学にきてほしい。




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