講師 高21回卒の斎藤博明氏 (TAC株式会社 代表取締役社長)
演題 「私の原点と経営戦略」
手塚治虫との出会い
手塚治虫に憧れ、漫画家を目指す。手塚氏に弟子にしてもらいたいと頼むが、高校に行ってデッサンを勉強し、ストーリーが作れるようにならないと無理だと言われる。そこで仙台二高に進学し、美術部でデッサンを学ぶ。また、ストーリーが作れるようになるため、本を多く読んだ。漫画ノートをつくり、自分が考えた物語を書き溜めていった。こうして手塚氏にお話を伺ったのが、一つの大きな分岐点になった。
同時に、人前でも話ができるように、応援団に入団する。この経験は、おとなしかった性格を改善するのに役立った。
人生の原点
芸大に行くか迷いながらも、東北大学に進学。しかしすぐ無期限ストに突入する。教授や大学の権威がなくなり、世の中の価値がひっくり返った年だったが、自分の人生を考える良い時期だった。自分の原点をきっちり考えなければならないと感じ、座禅に辿り着いた。東北大の禅友会に入会し、老子の元に学んだ。そこで隻手の公案を与えられた。
「両手を打つと音がする。片手(隻手)で打つとどういう音がするか聞いてきなさい」
夜になると老子呼ばれ答えを聞かれるが、そのうち言う言葉がなくなり苦しい思いをした。答えを見つけるには、本気で取り組み、隻手になりきらなくてはならないと教えられた。相対(両手)の世界から、絶対(片手)の世界へ入っていくということだった。老子と一対一で面授を受けたことで、精神がまっすぐに鍛えられた。この考えがわからないと、人生先にすすむことができないと感じ、大学時代はひたすら隻手に向き合っていた。残念ながら老子は大学4年に亡くなったため、正しい答えを聞くことができなかった。
後に会社をたちあげるが、会社と自分は別ではないという精神が常にあった。会社は自分で、自分は会社である。会社に没頭して仕事をしたが、その精神は座禅で身につけた。体で考えを進めることが座禅でわかった。老子と出会ったことは精神的に非常に大きかった。
デカンの誓い
座禅をきっかけに釈迦に憧れ、大学3年のときインドに行った。デカン高原を放浪していたとき、老人に出会った。畑をかん水するために牛のお尻をたたき続けている。顔が真っ黒で、この人は生まれてずっとこの仕事をしているのだなあとわかる人だった。なかなか離れられず、夕方になるまでずっと見ていた。当時、自分が社会でどう生きていけばいいのかわからなかったが、老人がひたすら働いて一生を終えようとしているのを感じて、戦慄が走った。身分の差別がなく、自分がどう生きていくかを自分で決められる今の日本に生きていることがどれだけありがたいかを痛感したのだ。自分はこの時代の日本という国に受けた命を、自分の精一杯自分なりの行き方で生きてみせるぞとデカン高原の夕日に誓った。自分の生き方の原点を築く事ができた。私は自分の運命のありがたさを体中で実感した。
ダッカの誓い
バングラディッシュのダッカの空港で、強盗にあう。おとなしく金をだして難を逃れた。その後、仏教の寺院に滞在中、慶応大学の中川氏の遺骸が運ばれてきた。彼は列車強盗にあって、金をだすのを一瞬ためらったために殺された。同じ時期、同じ目にあった私はたまたま命が助かったが、彼はほんの一瞬のためらいで命を失った。生と死はほんの一瞬の誤差だと思った。彼は私の代わりに死んだように思えた。命があって息をしているというのはすごいことだと実感した。生きている限りその命を精一杯生きようと誓った。
バンコクの約束
タイで仏教寺院に宿泊していた際、高熱に倒れてしまった。すると同じ部屋のお坊さんが自分の故郷に連れて行ってくれ、彼の妹が看病してくれた。彼女と恋に落ち、日本に帰る前に「必ず迎えにくる」と約束した。日本に戻り、タイの大使館に留学の試験を受けようとしたら、試験がタイ語であったため、大学に留学し会いに行くという約束が、叶わなかった。彼女と再会することはなかったが、留学しようと思いつめることができた。自分のすむ場所をいろいろ動かすことができるとわかった。
社会でどう生きていくか
大学4年のとき、新日鉄に内定する。その時、役員面接で「新日鉄の部長と通産省の課長はどちらがえらいか」と聞かれた。新日鉄のほうがえらいと答えたら、内定した。先輩に聞いても同じ考えで、鉄が世界中に君臨すると本気で信じていた。それでこの会社はだめだと思った。新日鉄がこの程度ならば、ほかの会社も同じだろうと思い、就職するのをやめた。自分の運命の主導権は自分が握るべきという考えから、会社に自分の運命の主導権をとられるのは嫌だった。また会社や上司の考えることは非常に狭いと感じていた。その中で自分の価値観も狭まり、自分が自由に生きられなくなることが嫌だった。そこでカルカッタ大学の美術部の留学をしようと留学許可をとった。しかしインドに留学していた人はインドに影響を受けすぎて、日本の社会に適応できなくなっていた。インドの留学もあきらめた。
どうして生きていけばいいのか悩み、ビジネスをやろうと思った。大学の延長上で塾の経営をしていたが、塾は母親相手のビジネスで、おもしろくないと思った。お稽古と幼稚園を一緒にしたの幼稚園の経営をしようと思い、戦略書を銀行に持ち込んだが、担保がないため断られた。また、今の自分の持っているレベルで、ビジネスをするには限界を感じた。自分のレベルを上げる必要性を感じ、公認会計士という道を思いついた。大学での勉強とは畑違いだったが、留年をして簿記の勉強をはじめた。しかし、同級生は会社員としてレベルを上げているのに、自分は学生のままで辛い時期だった。
仙台で一人で勉強することに限界を感じ、上京する。金がないので、風呂は週一回、駅の新聞をあさり、貧しい食生活だった。キャベツを盗みにいったことも一度あった。その時期、仙台に婚約者がいたが、父親にヒモと呼ばれたことが我慢ならず、破綻してしまった。そのためたった一人で試験と向き合った。試験で一番を目指し、ようやく合格することができた。会計士という強さを身に付けたが、ここからどうシナリオをつくるかが勝負だと思った。松下幸之助氏を尊敬していたため、松下政経塾で松下氏から人生の極意を学び取りたいと思った。しかし一方でビジネスをはじめるチャンスだと感じていた。会社のレベルが下がり、個人のレベルがあがり、会社と個人のレベルは対等になる時代が来ると読んでいた。そのため、これからプロフェッショナルの資格を目指す人はどんどん増えていくだろうと思った。
どちらを選んでも正解だと思ったが、社会からの評価が低いほうを選ぼうと思った。会計士を教える学校という位置付けは極端に低く、アントレプレナーが叫ばれていなかった当時は自分でビジネスをはじめることは圧倒的にマイナスだった。松下政経塾は私でなくてもいいだろうと思ったが、ビジネスをたちあげることは私がやるという意味があった。
経営戦略
29歳のときにTACという会社を立ち上げた。会計士の市場では、会計士の試験に合格した人が指導する機関が力を持っていた。大学生を市場に引きずり込むということが重要だと考えた。当時は社会人が圧倒的に多かった。マクドナルドの藤田田氏は子供だけを相手にすることで、未来の顧客を作り出していた。同様に大学一年生に対して、会社で終わる生き方ではなく、自分で人生を作っていくという職業的専門家としての生き方を伝道した。自分に強さをつけて生きていくために会計士の資格取得をアピールした。これを続けることで、ダブルスクールという社会現象を生み出すことができた。社会に対して、正しい方向へ働きかけをすることで他社も追随するようになった。勉強したいと思っている大学生が増えた。学生が市場の中心を占めるようになった。顧客はどこにいてどう作っていくのかが、ビジネスのキーポイントになる。そうして、会計士市場で圧倒的なトップシェアを占めることができた。
その後税理士の市場にも参入する。多忙な社会人を顧客に選び、税理士の市場でも既存企業を追い抜くことができた。
小さい沼の大きな魚になろうと展開してきたが、20年で100億の会社になり、現在は売上200億円、会員は17万人になった。売上が下がったことがないのが自慢である。2001年の10月25日にジャスダック市場に公開。前日になってようやく妻に「大事な話がある」と電話した。帰宅すると、借金を背負っていたので倒産したと勘違いした妻は、息子と娘に学校を辞めて働くよう話していた。2003年一月に二部上場、2004年の三月に一部上場したが、周りがありがたがるようなものではないこと、やっと自由になれたという印象だった。
生き方と考え方
・ 360度のどこに点を打つのかということと、今という場所・空間で生ききる事が大事である。今、本気で生きなければ、未来はこない、最大限にどれだけ生きることができるのかを考えて生きてきた。
・ 過去にこだわらず、現在に徹底的にこだわる。現在どこまで生ききるかで将来が決まる。自分の運命の主導権は他人・会社に握らせない。自分の運命は、あくまで自分に絶対の権限を持たせる。
・ 人生の角度を鋭角に生きる。
・ 限界を超えてからが本当の勝負になる。普通の人は限界に辿り着くとそこで走るのをやめてしまうが、限界を超えてもなお走り続けるということが勝負のポイントである。
・ 楽観的な人生観をもつ。自分だけは大震災があっても生き残るというような人生観を持つことが必要である。
<主要著書>
「風の記憶」
「風を追う」
「風に出会う」
※「風に出会う」収録の「収容バスとの競争」が1999年文芸春秋社のベストエッセイに選ばれる。
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