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(2000.3/28作成)
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小太刀先生のこと
中45回 神谷 明
 顔に吹きつける小雪に難渋しながら私はひた走る。「オーイ・・・。」遥か後方か
らかすかな呼び声が聞こえたような気がした。
 私は学校に遅れそうなので、からだ中から汗をふき出しながら、かまわず走り続け
る。
 暫くして、今度は「オーイ待ってくれェー」とやや哀調を帯びた愛すべき例の声が
私の後方百米位まで迫ってきた。
 振りきるか?まあどうせ走り通しても朝礼には間に合わないからと彼を待つ。
 息せきを切って駆け寄ってきたのは小太刀先生である。「ひでえ雪だなあ、君も寝
坊で毎日走るの大変だろう、いや疲れるねェ」などといいながら汗をふいている。
 「俺はいいが君はどうする?」「僕の方は心配ないです。教室に直行して見つから
ないように机の下にねています。」「大丈夫かなあ、それはそれとして、もう少し走
ろう」
 小太刀先生との間にこんなやりとりが何回かあった。
 戦争もあと二年足らずで敗戦で終わろうという凄惨な状況下での心温まる会話だっ
た。
 小太刀先生は国漢を受持たれ、型にはまらない野人で、純粋で心やさしい人だった。
 腕白生徒のいたずらに堪りかねて猛烈に怒り、出席簿を折り曲げたこともあったが、
生徒を殴ることはなかった。
 怒った後は照れくさそうに笑っていた。
 腕白生徒のいたずらが止む筈はなかったが、先生の前ではいくらか率直のようだっ
た。
 その小太刀先生が遂に兵隊にとられ、私は再び彼の”遥かな呼びかけ”を聞くこと
はなかった。
 或る日朝礼のとき軍事教練担当の長沼先生からだと思うが、小太刀先生がフィリピ
ン方面で戦死されたという説明があり、全員が黙祷をしたのを覚えている。
 小太刀先生を兵隊にしてはならなかった。
 存命しておれば優れた文学者になられたのではなかったろうか。
 「オーイ、待ってくれェ」という先生の呼び声が戦後四十余年を経たいまでも私の
耳に残っている。
 戦争を逃げればよいとばかりは思わないが小太刀先生のような優れた無数の人材が
無為に犬死同然に失われることが悲しい。
 昭和五十五年、創立八十周年記念同窓会員名簿に「小太刀景吉・死亡 昭和20・
6」とある。戦後四十余年の歳月は風化を進めて小太刀先生の存在も名簿の中に埋没
した。
 昭和十六年十二月八日私は二年生だった。
 雪の舞う校庭で天皇の宣戦詔勅の放送と土井校長の悲愴な訓示をきき心臓が凍りり
つくような絶望感におそわれた。やはり戦争は暗転し多くの小太刀先生を失って敗れ
た。
 私は小太刀先生と雪の日にいっしょに走ったときのあの連帯感に二中時代の思い出
が凝縮されているように思っている。
 小太刀景吉先生渾名はキセル。  
 合掌。
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