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(2000.3/13作成)
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思い出の二中・二高時代の恩師
高3回 桜井 実
私が旧制二中に入学したのは昭和二十年の四月であった。敗戦の色濃い戦時中の末期
であったが、艦載機に襲われたりB29の偵察があったりして、これから先どうなるか
が不安な時であった。
広い校庭は全部耕されてじゃがいもが植えられていた。ばねさんこと、木村先生はじゃ
がいも畑に我々を連れて行き、上手に大きな芋の塊を盗む方法などを教えてくれた。飛
行機の燃料になるといわれていた松根油を作るために、七北田方面の源田兵衛の山に連
れて行かれて、一所懸命松の根を掘り返したことも思い出される。今、そこは町中の団
地になってしまった。
けたまご(長沼先生)にびんたを食らい乍ら剣術でしごかれ、芋のこ(桐原先生)に
クラス全員が投げ飛ばされるという柔道の稽古をしているうちに、ついに七月十日の仙
台空襲の日が来た。
焼け野原の街をうろついていたら、受持ちの先生であったすがめさん(渡辺義夫先生)
が北四番丁勾当台通りの焼けた瓦礫の上で茫然と立っていたのをよく覚えている。終戦
の年はひどい冷害で不作ではあったが、いくらかの貯えがあったためか食糧困難の辛苦
の波は押し寄せてはいなかった。
丁度伸び盛りの中学二年の頃が最低の年であった。じゃがいもの葉を供出したらそれ
が茶色の馬糞のようなパンに化けて配給になった。空腹のために学校も休みになり、午
前中に帰される日も何日か続いた。教壇に立った英語の最上先生は、途中で声が出なく
なって倒れるように教室を出て行ったことも記憶に残る。
三年生になって漸く弁当持参で学校に行けるようになったが、昼飯を食べている生徒
を相手に、漱石の「坊ちゃん」や「心」などを読んで聞かせてくれたのは、今になって
は恩返しのできない有難い思い出である。欠乏の極限に達していた先生と生徒は反目し
あう余裕すらもないばかりか、闇市でアルミの鍋や弁当箱が手に入ると先生の家に届け
に行ったり、たった一升だけの闇米を袋に入れて先生を励ましに行ったほどである。今
では考えられない教師と師弟の間柄が懐かしくてたまらない。それから教育制度が変わ
り、合計六年間、川内の校舎にお世話になったのである。
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