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(2000.3/20作成)
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試験
中40回 津田 敏夫
初めての試験
 あんまり適切なテーマではありませんが、試験について若干述べてみたいと思います。
 私は、中学40回卒(昭和15年卒業)ということになっておりますが、昭和14
年11月まで在籍で、第5学年1学期終了の中学40回生です。それは、同年12月
1日陸軍経理学校に予科第5期生として入校したので、卒業にはいたらなかったため
です。
 当時、陸軍経理学校予科・本科には、第2期生から第4期生まで宮城県出身者がお
りましたが、石巻中学2名、仙台一中5名、佐沼中学1名という分布状況で仙台二中
の出身者はおりませんでした。仙台二中では、第5期生に私を含めて3名合格したの
が最初で、その後6期生以下続々と後輩が入校して来たのは頼もしい限りでした。
公職追放令
 終戦時は第七師団歩兵26連隊の高級主計という立場におり、連隊本部は弟子屈に
在って北海道道東地区の警備にあたっておりました。8月11日樺太国境を越えてソ
連軍が進攻してきましたので、8月14日夕刻部隊は出動命令を受け、8月15日早
朝その先発要員として弟子屈を出て稚内に向かいつつあり、中継駅の富良野駅で玉音
を受け終戦となりました。
 死を決意したこともありましたが、その後、世の中が平静になり、私は青年学校の
先生になろうと願書まで出しましたが、公職追放令なるものありそのような公職には
就けなくなり、在野で過す以外道がなくなりました。それが、その後の私の人生を変
えてしまい、昭和26年以降各種の国家試験を受けざるを得なくなりました。
国家試験挑戦
 公認会計士、税理士、不動産鑑定士等と29歳より48歳まで各種試験に挑戦し何
回も試みたのもありましたが、その全てに合格しました。
 これらの試験は仙台二中で体育館に張り出された模擬試験の延長みたいなもので、
自分では仙台二中魂を遺憾無く発揮したものと思っております。この種の試験では、
同窓生中早く合格した人のうちに入っているのではないかと思っております。
 48歳の時の試験は不動産鑑定士の試験で、できるだけ大きい字の不動産六法を購
入して○×式に挑戦しました。論文式の試験が多かったので○×式には戸惑い難しく
感じました。しかし、自分なりに○×退治の勉強法を発見しました。それは法律条文
を徹底的に勉強することと、問題集による答案練習を所定時間の60%位で実施する
ことです。
 最近、文理予備校の監事職あり時々同本部に出入りしておりますが、掲示板に成績
表が張り出されているのを見て昔懐かしいと同時に、大変だなあ、後輩よ頑張れ、と
心の中で言うております。しかし、大学を卒業して後の世の中もそう甘くないことも
知って貰いたいと思っております。
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