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文武一道

三船 久蔵(1883.4.21〜1965.1.27) 中島信吾著

 幼少からわんぱくで鳴らした三船久蔵が、初めて柔道を見たのは明治三十二年、 旧制宮城県仙台第二中学校二年生の時だった。片平町にあった旧制二高(東北大学) の柔道場を通りがかりに偶然発見したのである。これが、生涯を柔道で過ごすことに なる運命的な出会いとなった。
 川原衛門氏が昭和四十年、本人に直接取材して岩手日報に五十六回連載した 伝記小説「三船久蔵」に、その有り様が活写されている。
 それによれば三船は、早速二高道場の窓越しから中を覗くために通うことを決め、 翌日も翌々日も窓越しに眺めては早速自分ひとりで柔道を始めた。うずうずしていた 手足が本能的に呼び込んだといったほうがよかろう。
 当時、旧制二高は柔道が強かった。東京の一高と仙台二高の対抗柔道試合は、 そのころの最大行事。このため二高柔道部は毎日「打倒一高」目指して火の出る ような練習を続けていた。
 三船はそんなことも知らずに、二中から約二キロ離れた二高まで行き、三日間 通い詰めただけで足払いや背負い投げなどの格好だけを覚えた。それを夜下宿に 帰って頭の中で分析、再構築した。よほど柔道に適していたとしかいうすべがない。
 三船は早速見学を終えた四日目に柔道を試すことにした。岩手日報によれば こんなふうだった。
 放課後、廊下に飛び出した三船は同級生の今井三郎に追いついて、「俺は、 二高道場を覗いて柔道ってものを覚えてきたよ」と目を輝かせていった。今井は 振り向いて、
「柔道ってなんだ」
といった。
「すばらしいもんだぞ。どんな大きな、力のつよいやつでも、投げ飛ばすことが できるんだ」
 今井はランニング選手で相撲もなかなか強い。三船より背が高い今井は、ふだん 相撲をとれば、組んずほぐれつの互角の力だった。それに向かっていったのだ。
「今井、遠慮なくかかってこい。ひっくり返してみせるから」
 そうして理屈だけで覚えたばかりの足払いで難なく倒した。頭の中の分析が 見事実際に役に立ったのだ。真っ赤になった同級生が、
「三船、足で蹴るやつがあるか」
と怒ったように抗議すると、
「蹴ったんじゃないよ。おれの技がへただからそう思われたろうが、これが スパッと決まると、どんな大男でも頭上をこえてふっとぶんだ。つまりこれが 柔道なんだ」
 今井が、不満そうな顔で挑んだ。
「もう一回やろう」
 再びの挑戦だったが、こんどは腰投げで転がした。まだ不格好な投げっぷり だったが、投げたことにかわりはない。珍しげに取り囲んだ四年生の力持ちの 大男も名乗り出た。こんどは砲丸投げの選手である。当時の先輩といえば 鬼よりこわいといわれたものだ。はじめは少し遠慮したが、たってといわれて 覚悟を決めた。そして恐れずに手足が触れるや否や、巴投げで宙を舞わせた。 一同は呆然と息を呑んだ。宙を舞った先輩も柔道の威力を目の当たりにしたのだ。 この効果は十分だった。
「お前、奇妙な手を知ってるんだな。これも、やっぱり柔道ってのか?」
 三船はここぞと柔道のすばらしさを説いた。彼には奇妙な弁舌の才があった。
「二高柔道はこんな薄っぺらなものじゃない。もっともっとすごいんだ」
 この場で二年生の三船が師範兼キャプテンになった。これが旧制二中柔道 の始まりである。それまでは柔道部などなかった。部員が何十人にも増えた。 三船は二、三日おきに二高道場へ立ち寄り、選手たちの猛練習ぶりを見学して は、得たものを部員とともに研究した。
 ある日、三船が例によって二高道場の窓口から中を覗いていると、一人の 白帯がやってきた。二級の杉本といった。彼が、
「君は二中生らしいが、ずいぶん熱心に見学しているところを見ると、柔道が とても好きなのかね」
 三船はここぞと、
「大好きです。ぼくはここにきて柔道を研究しているんです」
 三船が陽気に答えると、研究だと?まるで博士みたいだな、どんなふうに研究 しているんだ?などとからかうように言い出した。そして、
「二中に柔道部があったかね」
 そこで、まってましたとばかりにいった。
「ぼくが最近作ったんですよ。部員が四、五十名にふえました」
 杉本二級がいった。
「なるほど、君がそこの師範兼キャプテンというわけだな。どうだい、センセイ、 ただ見ているより、本場の柔道を味わったら?」
 まだ、からかい半分である。
「どうぞ、お願いします。二中二年生、三船と申します」
 対外的に名乗ったのは、これが初めてであった。三船は勇躍して玄関から回り、 二高柔道場に上がった。柔道着は二高部員から拝借し、白帯を締めた。そして 杉本二級にぶつかっていった。
「そら行くぞ」
 余裕しゃくしゃくで、笑顔を浮かべた杉本二級は足払いを放ったが、三船は ひょいとかわした。杉本二級は矢継ぎ早に強引な大外刈りを飛ばしたが、 三船の返し技が炸裂し、杉本二級はひっくりかえった。二中柔道部の洋々たる 船出だった。
 三船が中学三、四年になると、二高主将の二段とあらそっても、決して負ける ことはなかった。彼は特定の師匠を持たなかった。「自得工夫」が生涯の 態度だった。すなわち自分で会得すること、そしていろいろ考え、手段を立てる こと、そして精神の修養に心を用いることである。彼が上級生になるにつれ、 二中柔道部はますます人気の的になり、全校生の過半数、二、三百人が部員に なった。三船はその一人ひとりに稽古をつけてやった。
 そのころには仙台市内外の中学校や農学校から師範になってくれとの招請状が しきりに舞い込んで、三船は二中生のまま各学校の柔道指南嘱託になり、放課後 はその方面にも回った。八面六臂の活躍だった。これらの謝礼が月に六、七円に なった。月謝が月一円、下宿料が四円五十銭だったし、家からの送金が七円あった から、懐は暖かかった。
「今晩、これで牛肉を食いに行こう」
 そういって部員を連れて散財した。このころから親分肌だった。
 卒業間際に二高と挑戦、両者十五人で試合したが、二高は四人で二中の十四人を なぎ倒した。しかし残る大将三船が二高の大将入来重彦までの十一人を一人で抜いて しまった。しかも技はすべて違っていた。鬼神の活躍である。
 彼の郷里、岩手県久慈市は、三方が山、一方は海の険しい地勢である。交通も 極端に不便で、このため気風が荒っぽく、中でも三船の腕白は群を抜いていた。 彼は米問屋の七人兄弟で、末っ子だった。本人も自伝に書いているが、
「梨やリンゴがみのる頃は、徒党を組んで白昼堂々と盗りに行き、少し形勢が 悪い時は夜襲したりしたが、私は身軽なのと逃げ足が早いので、一ぺんも 捕まったことがなかった」
 畑の持ち主は悔しがって、木に登った三船をすぐに棒切れでたたこうと背中の 帯に差したが、頭から小便をかけたら、持ち主は驚いて木から落ちてしまった。 こんないたずらの限りを尽くし、小学校では先生から叱られ通しだった。
 しかし成績はよかった。久慈小学校を卒業すると、彼は「仙台二中に入学したい」 といった。東北の秀才が殺到し、七人に一人という難関校だった。入学してからの 活躍振りは紹介した通りである。
 仙台二中を出て早稲田大学に入学したのは、三船が「おれは実業家になる」と 志したからだった。しかし柔道の魅力の前にはどの道も色あせて見えた。
 明治三十七年早稲田大学予科に入学、十月二十三日に二十歳で初段。同三十八 年に慶応大学理財科に入学、「懸賞新報」、雑誌「はやり髪」を出して経済に 強いところを示す。一方では講道館有段者試合で八人を投げ、抜群のゆえに二段。 以来毎年のように段を進め、三十歳、五段で結婚した。
 昭和五年、すでに七段講道館指南役になっていた三船は、第一回全日本柔道 選手権大会で特別選手として模範乱取りを披露した。それ以後は世界を回って 柔道普及に努めた。
 通称「空気投げ」、講道館では「隅落とし」という技を編み出した。これは 腰も足も掛けずに、ちょっと体を低くするだけで相手がもんどり打って飛んで 行く鮮やかな投げ技である。さらに「内円の動因が外円を支配する」という 原理により、小さい自分が大きい相手を大きく倒す「大車」。さらには七十五歳 の高齢で、しかも体重わずか四十八キロの小さな体でありながら、体重七十キロ の大男をかるがる両肩にかついで、頭越しに大きく一回転して投げ飛ばす「玉車」、 あるいは「横別れ」と名付けたもので、相手を前方に浮き崩し、相手の前下に 自分の体を横一文字式に捨てながら、両手を引き働かせて自分の体越しに転倒 させる神業などを次々に編み出した。
 旧二中以来六十年間、試合で一度も負けず、投げられたこともなかった。
 母校講堂に三船が書いた「文武一道」の四文字が、今もりんと輝いている。


略歴(1883年〜1965年)

1883(明治16)年4月21日、岩手県九戸郡久慈町(今の久慈市)生まれ。
仙台二中三回卒。
1945(昭和20)年柔道界最高の十段。
1956年、紫綬褒章受章。
1965年1月27日、八十一歳で没。



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