HOME / 同窓会 / リンク / 改訂記録




ヨコマキってだれ?

槙 有恒(1894.2.5〜1989.5.2) 中島信吾著

 ヨコマキ?だれ?  「横巻? 一体、だれのことだろう」。1921年9月、スイスからの外電が 新聞で報じられたとき、日本の登山界はキツネにつままれたような騒ぎになった。 外電は「前人未踏とアイガー東山稜が、日本の青年ヨコマキによって初登攀された」 と伝えた。
 実は、登頂したのは慶大山岳会の創立者で欧州留学中の槙有恒氏だった。槙氏の 名前の読みは「ユウコウ」。「YUKO MAKI」の電文が、誤って「ヨコマキ」 に変わってしまったのだ。
 九月十日、槙氏はガイド三人とともに、アルプスの難峰アイガー(3,970 メートル)の東山稜から登頂に成功。アルプスに残された数少ない未踏ルートを 攻略した二十七歳の日本人登山家「ユーコー・マキ」の名は世界に知れ渡った。 帰国後、日本に欧州アルプスの本格的な登山技術を伝えた。
 これは槙有恒の名が世界に広められたときのエピソードである。  祖父は槙小太郎といった。河井継之助で知られる幕末の越後長岡藩で武芸指南を やり、戊辰の役に隊長として出て敗れ、長岡から米沢を経て仙台へ落ち延びた 人物である。
 息子の槙武は仙台で奥羽日々新聞の主筆をしていた。酒もタバコもやらず、運動 家だった。長岡にいた小さいころは、町内に弱い子が二人いて、どちらかが先に 死ぬといわれた一人が父だった。この弱いはずの父が、八十二歳まで健康で生きた。
 槙有恒は彼の次男で、1894(明治27)年に生まれた。その後有恒は幼少 時代を神戸、京都で過ごしたが、初めて母千年(ちとせ)や仙台からきた叔母と 一緒に、早くも神戸の摩耶山へ登っている。幼い妹は母や叔母におぶさって行く ことが多かった。こんな家庭環境が、有恒を早くから山好きにした。
 小学校四年に再び仙台へ戻り、宮城県仙台第二中学校を終わるまで仙台にいた。 このときは父の職場が京都から東京へ変わったのだが、いずれは仙台へ移るという ことで、彼は一足早く仙台の叔父の家へ寄寓したのである。両親は学校を転々と することも好まなかったし、親の下を離れての田舎の生活をさせようと考えたようだ。
 仙台に移ったばかりの師範学校付属小学校四年のとき、仙台から級友に紹介され、 教壇に立って京都の話をした。すると言葉が仙台のとは違うと爆笑され、恥ずかしい と思ったそうである。
 彼は神戸でも京都でもどういうものか先生に可愛がられ、仙台でもそうだった。 そのころの小学校は四年を終わると高等科になって二年あった。高等一年を終了 すると中学を受験して進むのだ。仙台第二中学校へ進んでも、いわゆる先生の ヒイキだった。
 1904(明治37)年、乃木希典将軍の旅順港攻撃戦と、1905年5月の 同じく日露戦争日本海戦で、連合艦隊が東郷平八郎提督による勝報の号外を見て、 叔父夫婦と涙を流して感激したものだ。
 家は仙台の西北隅に近い北七番町にあり、畑や林や竹やぶの多い所だった。仙台 第二中学校は目と鼻の間で五分とかからず、近所は林が多く、寺や墓地で昼間も 薄暗かった。家から数丁北四よりに林子平の墓があり、その辺からが伊勢堂山と いわれた丘陵で、松林や雑木林におおわれ、キジ、ヤマドリ、ウサギなどを見かけた。
 このころの学校はのんきなもので、今日の青少年のように時間を惜しんで勉強の みに精を出すという風はまったくなかった。父親も母親も夏休みになると彼と兄を 日本中どこへでも旅行に出した。九州から北海道、あるいは韓国や中国まで歩いた ものだ。しかし普段の通学以外、時間の多くは、お天気でさえあれば仙台近郊の 野外と決まっていた。
 中学五年間を通して大きな影響を与えたのは、この伊勢堂山を中心に歩き回った 仙台周辺の山や丘や川や林。そのころはまだ放置されたままの自然の姿だった。 いまでもそうだが、そのころの仙台は杜の都といわれ、たいへん美しい都会だった。
 木が多く、美しい広瀬川が流れ、あたりを山にかこまれた仙台は、土井晩翠の 詩そのままの、自然に恵まれた都市だった。森や林も、そのときどきの小鳥のうた、 秋の夕べの虫の声など、春夏秋冬、いつも自然の美しいところだった。
 登山家の基礎は、この仙台でしっかり育てられた。握り飯を腰に下げ、友だちと、 四季を問わずあたりの山を歩き回って、自然を楽しんだ。この数年間で、彼は山を 歩く楽しさを心にしみて覚えた。冬には丘の間に凍った池があって、下駄にかすがい を打ったスケートを履いてよく滑った。手がひびで切れていたが、そんなことは 気にならず、宮城野海岸まで十キロの道を下駄履きでフナ釣りに行き、一日がかり で釣った数匹は、結局獲物も竿も捨ててしまい、土埃の田圃道を夜になってから 帰った。
 1910(明治43)年、長い尾を半天に引いた不思議なハリー彗星を見たのは 十六歳のときだ。彼にとって、仙台の野外、山や川は何にもまして心のふるさとだ った。
 仙台第二中学校に入り、父の勤め先の若い人に連れられて、十二歳で初めて富士山 に登った。
 そのころは御殿場から須走まで鉄道馬車が走っていた。菅笠、金剛杖、着ゴザ、 ワラジ履き。こんな年少で登るのは珍しいとほめられたが、八合から上は苦しかった。
 これを皮切りに、阿蘇、羊蹄山、白馬岳と、中学時代だけで北海道、本州各地、 四国、九州、中国、韓国へ旅行した。北海道の有珠山にも登っている。卒業するころ には太平洋側も日本海側もほとんどの地域を知っていた。
 慶應義塾大学に入り、日本山岳会創立者たちに出会った。長谷川如是閑、碧梧桐、 中島久馬吉、細川護立などがいた。
 有恒の楽しみのひとつが、山岳会の先輩からいろいろな山の話を聞くことだ。その 当時の山登りといえば、格好から見てもいまとは随分違った。リュックサックもまだ なかったから、雑のうを持って、ワラジにキャハン。ワラジはよく切れたから、 一週間とか十日とか、少し長く山を歩くときにはワラジ用の人をひとり連れて行くの だ。何十足というワラジを、しょいこにつけてかついでいくのである。大きなテント もなかったから、軍隊用の一メートル四方ぐらいの小さなものを継ぎ合わせ、雨が 降れば下に入るのだ。岩小屋で寝るときは、一番はじになると雨のしずくで一晩中 濡れてしまう。
 弁当箱は竹で編んだ、カゴのようなもの。食べるものは大きなナベで煮る米と味噌、 ヒダラに佃煮など。谷には自然に倒れた木がたくさんあったから、木を谷川のきれい な流れのわきで燃やして料理した。味噌汁には山の草などを入れた。十日以上もいる と栄養失調で鳥目になり、夜になると目が見えなくなるから、山を下りるとウナギや 肉をたべた。そのころからハンゴウは便利なものだった。テントがないころは油紙 などを持って行った。
 海外の知人とスキーなどを通じ親しくなった。懐かしい山の友人たちとともに国内 の山を楽しんだ彼は、慶應義塾大学を卒業すると、アメリカにわたり、コロンビア 大学h入学した。アメリカが第一次世界大戦に参加したときで、大学もすっかり 軍国調だった。
 はじめニューヨークに行ったが、あまり人工的な大都会の空気になじめず、州の北、 レーク・ジョージ湖のほとりに移った。それからイギリスへ行き、フランスから スイスに行った。この間にアメリカの山、イギリスの山、スイスの山などを片っ端か ら歩いた。ベッターホルン、メンヒ、アイガー、ユングフラウ、モンテ・ローザ、 ワイスホルン・・・・・。
 1921(大正10)年9月、彼はアイガー東山稜に登った。アイガーの南と西は 多くの人に登られていたが、東はアルプスの中で、もっとも難しいといわれ、それま で五十年もの間誰も成功していなかった。その東山稜に登るのを生涯の悲願にして いた男や、村の教師の男など四人で決行したのだ。そういうメンバーに選ばれるほど の登山家になっていた。
 アイガーとメンヒの山腹にトンネルを通し、ユングフラウヨッホまで行く登山電車 がある。これを途中で降りて、下の氷河を越え、アイガー東山稜にとりついた。 ロープで結び会い、彼は三番目だった。初登頂は見事に成功した。往復に苦労を重ね、 帰って泥のように眠った。朝になると大勢の人々が迎えにきてくれた。村の子供たち は晴れ着姿だった。村の山岳会の人達は「これで貴方の名は初めての登山家として しるされる」と話してくれた。花火がとどろいた。思いもよらない歓迎だった。
 終戦の翌月、彼は米軍によって追放処分を受けた。すっかり身軽になって信州へ 移り、追放解除までの数年間は無為の内に過ぎた。第二次世界大戦が終わると、 登山界に新しい時代が到来した。一つはヒマラヤ8000メートル級の未踏峰に 対する各国遠征隊の続出による世界的傾向、もう一つは国内的傾向で、登山が広く 一般化したことである。1950(昭和25)年、フランス隊によるアンナプルナ (8078メートル)、1953(昭和28)年、イギリス隊によるエヴェレスト、 いまはチョモランマ(8848メートル)の初登頂は世界の目をさらった。
 すでに押しも押されもしない登山家になっていた彼が六十二歳、1956 (昭和31)年のとき、日本山岳会長だった彼に、同山岳会から知らせが来た。
 「マナスル(8136メートル)の隊長を引き受けてくれないか」
 この計画実現のため、国も民間も挙げて協力を惜しまないという。まだ戦後の 疲弊から立ち直っていない状況では、大変な計画だ。もう年だからと再三固辞した が許されなかった。
 調査を含め第三次までの計画を立てた。第二次までは途中で断念。1956年 3月11日、本隊槙隊長以下十一人、シェルパ二十人、ネパール政府から登山隊に 同行させるリエーゾン・オフィーサー一人、ポーター四百人の登山隊がカトマンズを 出発した。2月13日、槙隊長ら八人が英国船で神戸港を出発して以来である。 延長距離約二百五十キロ、亜熱帯から氷河までの多量の食料と装備をはこぶのだ。 ポーター一人あたりの荷物が三十キロ。使用カメラのレンズ二十二本、フィルム 五十ダースと各カメラ用に一千五十本、映画フィルム九千フィート。
 見事成功した一行は、ネパール官民の盛大な歓迎を受けた。
 1989(平成元)年、心筋梗塞のため九十五歳で死去した。狂わしいばかりに 山人の世界に没入できたのは、ひとつに槙有恒の限りない自然崇敬がそうさせた としかいいようがない。


略歴(1894年〜1989年)

1894(明治27)年2月5日生まれ
仙台二中十回卒。
アイガー東山稜初登攀。
マウント・アルバータ初登頂。
マナスル初登頂。
日本山岳会名誉会員。
勲三等旭日中授章。
英国アルパインクラブ名誉会員。
1989年(平成元年)5月2日、95歳で没。



ご感想の掲示板です。(BBS)
メールの場合は
kikuta@sm.rim.or.jp


[同窓会に戻る/最新ニュース10に戻る ]