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巨星墜つ

愛知 揆一(1907.10.10〜1973.11.23) 中島信吾著

 底冷えする十一月二十三日、暮れたばかりの夜道を、赤いランプにピーポー ピーポーとけたたましいサイレンを流しながら、救急車が大都会の雑踏をかき分けて 行った。
 東京都文京区湯島の自宅から信濃町の慶応病院へ向かう、わずか二十五分の 距離である。
 救急車の中に、多忙で風邪を悪化させて入院に向かう患者が、振り絞るように 叫んでいた。
 「俺は、俺は、こんなことでは死なないぞっ」
 しかし、救急車が病院に着いたときには意識を失っており、もはや手遅れだった。
 1973(昭和48)年午後九時五十分、蔵相として日本で一番忙しかった 愛知揆一は、急性肺炎で意識を回復しないまま亡くなった。
 享年六十六歳。
 発作を起こしたとき、もしすぐ近くの東大病院だったら五分で行けた。そうして れば助かったかも知れない。その差二十分が文字通り命取りになった。
 石油危機の渦中での突然の死で、病院に駆けつけた田中角栄は、重要なスッタフ を失った悲しみに呆然としていた。
 愛知は蔵相就任直後に編成した今年度の大型予算と、一連の財政運用とが物価 高に拍車をかけたと批判され、その対応を迫られていた矢先でもあった。
 石油危機発生以来、首相のもとで経済、物価対策、来年度予算の編成、自由党 との調整などで精力的に動いてきた。
 風邪気味だったが二十二日には高熱を訴え、二十三日夕べ、救急車で入院した。 二十五日には国際通貨問題でジスカールデスタン仏蔵相と会談のためパリに 出発する予定だったが、救急車の中で意識を失い、入院まもなく引き取ったのだった。
 蔵相急死で同夜、慶応病院に駆けつけた二階堂官房長官はいった。
 「二十二日の閣議では補正予算案を説明したが、その前に開いた緊急石油対策 推進本部の会議ではひとことも発言しなかったので、問題を深刻に考えているん だろう、ぐらいに考えていた。しかしいまから思えば、あのときすでに疲れ切って いたんだろう」
 同窓生たちは囁きあった。
 「存命していれば、当然総理の綬を帯びる人だった」
 巨星墜つ。まさに痛惜の極み。新聞全てが一面トップで報じた。
 1907(明治40)年十月十日、アインシュタイン博士と親交のあった物理 学者、東北大学創立者のひとりである教授、愛知敬一博士の長男として仙台で 生まれた。
 母も実家は代々の漢学者系統で、一家を上げての学者家庭だった。揆一は生まれ たときから何不自由なく育ったのである。
 彼にとっては仙台こそがまぎれもないふるさとだった。
 宮城師範付属小学校、仙台二中、仙台二高を経て東大法学部を卒業した。当時の 法学部には刑法牧野、民法我妻の、特に採点に厳しい両教授がいて、優を十個とれ ば秀才といわれたが、揆一は実に十五もとる超秀才ぶりであった。フランス語は 二中時代から自習していた。
 二中時代は同級生と水魚の交わりだった後の最高裁判所長官、岡原昌男といつも 成績のトップを競っていた。しかし岡原は「一度も愛知には勝ったことはなかった」 と話していた。ともに日本の最先端にいようと決めていた。
 二中三年のときのことである。父がフグの中毒で急死した。これが彼にショック だったことは、秀才の彼が第二高等学校の受験につまづいたことからも察せられる。
 のちに王道を歩くことになる青年だったが、揆一は二高時代「ストライキの委員長」 だった。
 昭和二年のことだが、二高に新しく赴任してきた校長が有名な謹厳居士だった のである。その教育方針は二高四十年間の伝統とは相いれなかった。
 二高の生徒会は尚志会で、代表を理事といった。文科三年生尚志会理事だった 揆一は、委員長として先頭に立った。
 「われわれは自治を守るために闘わざるを得ない」
 揆一は校長の自決を迫る決議書を突き付け、ストライキに入ったのだ。
 結果は、生徒側に犠牲者を出さず、その校長は外遊を命ぜられた。
 東大を出ると直ちに大蔵省に入り、両国税務署長、蔵相秘書官、理財局外事課長、 官房文書課長、官房長、銀行局長と出世街道を歩き、二十五年に退官した。役所の 局長試験に嫌気がさして、大蔵省にさよならしたのである。
 むろんこのころから政界進出の野心を持っており、まず参院全国区から初当選した。
 しかし内気な彼は直前まで出馬することさえ誰にもいわなかった。
 選挙のときにかかげた言葉がある。
 「わたくしたちの生活の中心は家庭であり、その中心は女性であります。お母さん も奥さんも娘さんも、それぞれ自分の家庭に安心と誇りをもてるような楽しい日本を 念願いたします」
 若くして父を失い、母をただひとつのよりどころとして育ったものの歌であった。
 それから衆院にくら替えする。
 国会議員になってからは大蔵政務次官、吉田内閣の通産相を勤め「池田− ロバートソン会談」には池田勇人に同行した。
 銀行局長から政界入りして三年目の二十八年、防衛計画をめぐる、当時自由党 政調会長だった池田を補佐し、一躍名を上げたのである。
 渡米に必要な一切の資料、お膳立てはほとんどが揆一が一人できりもりした。
 送別会の席で吉田首相はいった。
 「折角の資料だが、あまりにくわしくて読むと頭が痛くなるほどだね」
 最大級のほめ言葉だった。
 こうしたことからアメリカ側を始め、戦前戦後を通じヨーロッパ、アジア、中南米、 中近東、オーストラリアなどを駐在や出張で出入りしており、知人がとても多い。
 この人が校長の追い出しをストライキをほんとうにやったのだろうかと思うほど、 人当たりがあくまでも柔らかだ。
 1957(昭和32)年、官房長官に決まったときの朝日新聞が書いた。
 「物腰が柔らかく、人当たりがひどくよい。坊ちゃん顔で、いかにも人が好さそう にみえる。ところがどうして、ちょっと要領がよすぎはしないか、という声がこの ところ強いようだ。こうした声の裏には、この人のトントン拍子の出世ぶりに 対するねたみもいくらかあろう。池田勇人氏に重用され、吉田茂元首相にも認められ、 二十九年始めには四十六歳の若さで早くも通産相。ねたまれても仕方がない」
 1969(昭和44)年九月十九日、揆一は国連総会本部で一般討論演説を 英語で行った。三十余分にわたり、彼は演説をした。
 「世界中の国が、国連と協力して恒久平和に向かって前進する」
 「平和への戦い」に重点を置き、国連の平和維持の機能を一段と強化する必要を 特に強調したものである。
 安全保障理事会の構成、評決方法などを再検討し、翌年の創設二十五年国連総会 では、国連憲章の改正も含めて討議を始めることを呼びかけた。
 日本が国連総会で憲章の改正を発議したのは初めてのことだった。これはわが国 が安保理事会の常任理事国に参加したいという意志を表明した出馬宣言だった。
 同演説は自由世界で国民総生産第二位に躍進した経済大国の実力を反映した、 自信あふれるものだった。各国ともに大胆な発言に驚いたものである。
 愛知外相は沖縄返還交渉を円滑にするためにも、日米間の貿易、資本の自由化を 推進する必要があることを強調し、当時蔵相だった福田赳夫に協力を求めた。 福田はケネディ米財務長官との駆け引きを伝え、精力的に作業を進めた。まずは 自由化だが、当時の日本にとっては、これまでの「保護主義が当たり前」という 考えを捨て、基本的な姿勢の転換を図ることが必要だった。
 当時の日本はモスクワでのソ連首相との北方領土、北洋安全操業という難問が あった。愛知外相は席の暖まる暇もなくワシントンとモスクワを行き来していた。 その上に日中問題もあった。どの問題にも沖縄がからんでいた。
 当時の朝日新聞は「核ぬき本土なみの沖縄交渉、残る胸突き八丁、八合目までは 軌道」と書いている。当時の首相は佐藤栄作。米大統領はニクソンだった。
 1971(昭和46)年六月十七日、米国の統治から日本の施政下に復帰させる ための沖縄返還協定が行われた。約一年の大総括だった。
 調印式は東京とワシントンで同時に行われ、宇宙テレビが首相官邸と米国務省の 両調印式場を結ぶ中で、愛知外相とロジャーズ米国務長官が調印した。実施は 翌年春であった。
 当時の外務相電信課長越智啓介(二中四十回)は途中、沖縄返還交渉の余りの 厳しさに、揆一に嘆願したことがある。
 「申し訳ありませんがもう身体がもちません。やめさせてください」
 「馬鹿なことをいうな。俺と一緒に最後まで頑張れ。これが終わったらお前が 望むどこの任地へでも出してやるから」
 そして越智はポーランド領事に栄進した。
 誰もが近い将来の愛知首相を確信していた。そのためにはしなければならない 急務が山積していた。それをつぎつぎに処理しながら、彼はそれから二年ちょっと で急死した。
 ことし沖縄サミットが開催される。果たして誰が、この返還交渉に心血を注いだ 愛知外相を思いだしてくれるだろうか。


略歴(1907年〜1973年)

1907(明治40)年10月10日、仙台生まれ。
仙台二中二十五回卒。
二高、東京大学法学部卒。
大蔵省銀行局長。
通産相。
内閣官房長官。
法、文、外、蔵相。
勲一等旭日桐花大綬章。
1973年11月23日没、六十六歳。



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