岡原昌男は1909(明治42)年、岩手県水沢市で岡原正吉の五男として
生まれた。本籍地は秋田県岩城町。先祖はここの下級武士だった。
幼いころからの神童秀才で、小学校は五年、仙台二中は四年、二高から東大
法学部に進学し、在学中に司法試験に合格、弱冠二十歳で司法官試補になった。
それほどの秀才だから最後は最高裁判所長官までつとめたのだが、
「先輩や同僚から、ろくに小学校も出ていないくせにとからかわれた。事実
小学校は五年で出たから卒業証書も貰っていなかったんだ」
秀才街道を突っ走り、「検察界の麒麟児」とうたわれるかたわら、ズバリと物を
言う点では司法界随一といわれた。
仙台二中に入ったのは1920(大正9)年。小学校五年修了者に中学校受験
資格を与える制度が採用された最初の年だった。同窓会誌に出た自伝によると、
「五條塾という小学校の学習塾に一年間通い、父や兄に励まされ、試みに五年の
とき、仙台二中を受験してみた」
合格発表は成績順に張り出されていた。それを見に行って、
「合格するとすれば百五十人のうちでも最後の方だろうと思って下から探したが
見つからず、念のためと上から見たらすぐ見つかったので驚いた」
そのころは新名掛丁の花京院通りから一丁ほど入ったところに住んでいたが、
北六番丁の校舎までは四キロ近くもあって、朝夕の通学はなかなか大変だった。
朝は家までの日課になっている拭き掃除を済ませてから、上級生の兄と一緒に
登校し、帰りはたいてい途中まで一緒だった。
兄は長身で早足だった。もう一方、名前は忘れ、ニックネームしか思い出せないが、
二十人町から出てくる「体操のキャッツァン先生」や、北一番丁のあたりで現れる
「数学のカラス先生」と一緒になることもあり、その早足にそろえて急ぐと、学校
に着くまでの間に、通学生徒や一般の通行人を含めると、五十人から二百五、六十
を追い抜くことができた。毎朝、追い抜いた人数を数えるのが楽しみだった。
入学当初は、勉強疲れと歩き疲れで、帰宅後はしばらく居眠りをしていた。しかし、
この早歩による運動の成果か、二中に入ってからほとんど病気で休むことがなく
なった。また日曜日のたびに兄と一緒に台の原や多賀城、閖上や荒浜、秋保などを
訪れた。
学校では相当にヤンチャぶりを発揮した。
校舎玄関前の古池に浮かんでいた枯れ木の上をはだしで伝って遊んでいるうちに
足を踏み外し、池の中のとがった枝で土踏まずを深く刺し、医務室で手当をしても
らった。その傷は終生消えなかった。
「元蔵相の愛知揆一君が同期で、学科ではともに数学が得意だった」
追い抜き競争のカラス先生が黒板に書いている因数分解の式が間違っているのを
見つけ、愛知君と顔を見合わせ、ニヤニヤしながら黙っていて、二行ほど下で
解答ができなくなって困っているのを見届けてから、その誤りを指摘したこともある。
理科系統が好きで、物理化学の実験は家に帰ってからも納得のいくまでやった。
英語は不得意で、六十何点から七十点ちょっとというところだったが、これは
後で二高三年のときに大学入試を目指し、英国の叢書本を次々と毎日五十ページ
ずつ半年ほど読むことによって実力をつけた。
中学四年から高校進学の制度はこの数年前以来実施されていたので、四年のときに
受験した。
「二中の徽章である朝日の八本の光芒は、正義、自由、剛健、質実、平和、友愛、
共同、自治の八徳をあらわしているのだそうだが、二中の四年間の学窓生活中、
朝な夕なに校歌を歌っては学にいそしみ、良き友と交わり、同時にうるわしい自然
に恵みにあぐくまれて、こうしたことが少年時代の私の人格形成に大きな影響力を
及ぼしたことは疑いない」と語っている。
1930(昭和5)年に東京大学法学部法律学科を卒業。在学中に司法試験に
合格した。以来検事、司法省課長、法務省部課長、千葉・京都の地検検事正、
札幌・福岡・大阪の検事長と進んだ。
この間、京都検事正のときには、好きだった平家物語を暗唱しながら、平家ゆかり
の寺々を歩き回ったこともある。1951(昭和26)年には司法制度及び
刑務所建築様式研究のため欧米各国に出張した。趣味は音楽鑑賞、野球観戦。晩年
は以前あれほどいやがったゴルフにどっぷりつかった。
若手の検事には圧倒的に人気があったが、馬場義続検事総長とそりが合わずに
不遇な時代もあった。
1970(昭和45)年十月、最高裁判所判事に登用され、1977(昭和52)
年八月に、検察官出身者としては初めての第八代最高裁判所長官になった。
1976(昭和51)年四月の衆院定数訴訟大法廷判決では、1972(昭和
47)総選挙の議員定数配分規程について、
「違憲だが、選挙は無効としない」
とした多数意見の判決に対し、
「配分規程は訴訟が起こされた選挙区についてだけ違憲で、選挙でやり直すべきだ」
とする反対意見を展開した。
1978(昭和53)年五月、憲法記念日前日の記者会見でのこと。岡原が
当時国会で審議中の弁護士抜き裁判特例法案、わかりやすくいうと裁判長の訴訟
指揮に従わず審理妨害となる場合など、弁護人抜きで審理を進める内容のものの
必要性を述べた。
これに野党などから三権分立の憲法原理に違反すると国会の裁判官訴追委員会に
訴追の請求がなされた。しかし結局は不訴追に終わった。過激派事件で荒れる法廷
が続出した時期であった。
「ずばり物を言う」という点で日本中を騒然とさせ、あるいは熱狂させた人物が、
1979(昭和54)年、ついに定年退官した。
長官退官後は、
「いまから考古学でもやる」
と弁護士登録もせず、トラック一台の法律書をS大学にごっそり寄付してしまった。
それはいいのだが、自適の生活を送る岡原からある日、後輩の青山義武弁護士の
所へ電話がかかった。
「すまないが民法○条○項の条文はどうだったかね?」
青山がびっくりして、
「えっ、先生なにをおっしゃるのですか」
と聞くと、
「いやあ、仕事をやめたもんだから、一切の蔵書を寄付してしまったんだが、
うっかりして六法全書まで入れてしまい、今、ちょっと調べものがあって困って
るんだ」
いかにも無欲活淡とした岡原にふさわしいエピソードである。
しかし、長官を辞したとはいえ、政治倫理の確立に情熱を燃やし、政治腐敗
防止法の制定などを積極的に提唱した。退官した年、当時の大平正芳首相が設けた
「航空機疑惑問題等防止対策協議会」の委員を務め、政治倫理確立の具体策を
提言した。
また1992(平成4)年の東京佐川急便事件に際し、金丸信自民党副総裁が
略式起訴されたと見るや、
「検察ファッショの声におびえて、真相追求を怠ってはならない」
と検察にあえて苦言し、かたわら「腐敗防止法」の制定を提言するなど、最後
まで政界の浄化を求める発言を続けていた。
世の中の悪にたいして、徹底的に厳しかった。
「醜状、惨たり」とは、朝日新聞が「新人国記’83」の「今の世にモノ申す」
に載せた冒頭にある岡原の一言である。
ロッキード疑獄の田中角栄元首相の犯罪に代表される政界腐敗を、元最高裁長官
はこういった。皇居のお壕端にある自宅マンションの一室で、
「腐敗の根を断つ方法は何か」
岡原はいった。
「中国では五講四美運動が展開されていると聞いた。五講は節度、エチケット、
衛生、秩序、道徳の尊重。四美は心を美しくし、言葉を美しくし、態度を美しくし、
周りを美しくする徳育運動。モラルを失った民族にはガタがくる。親や教師の恩を
ないがしろにする子供が日本では増えているが、金権政治がモラルを踏みにじった
ことと無縁ではない」
また、
「政治と不正なカネの結び付きを断つことが、モラル確立の第一歩。補助金
敵性化法違反事件の裁判を通して見ると、市町村への各種補助金が、政治家がらみ
でピンハネされたり、飲み食い用に吸い上げられたり、という税金のむだ遣いの
実態がはっきり分かる。まさに構造汚職ですよ」
1983(昭和58)年に本人が自筆した「新人国記」の資料がある。その中に
ある「同窓会など親しい人」の欄に、他の欄と違った太い筆で「二高の同窓生と
司法部同期会などと親しくしている」とある。
「秋霜烈日」がふさわしい人であった。
1994(平成6)年死去。葬儀の会場は故人の希望で「お別れの会」になった。
生きていた時に録音した岡原の「満足できた」という挨拶が流れ、次いで二高の
校歌が歌われた。
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