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生涯之現役

安藤 太郎 中島信吾著

 安藤は宮城県刈田郡七ケ宿滑津の安藤源治郎の長男として生まれた。安藤家は 300年の旧家で、参勤交替で裏日本の大名達が泊まる七ケ宿街道の一宿街道の 本陣(大名宿舎)である。江戸時代は、藩地の小部落を統治する方途として 部落名代に行政権を一任し、代償として「肝入檢断」の称号を与え、苗字帯刀を 許した。警察、司法、産業振興の権限を委任し藩の財政資金を使わずに統治の 実をあげた。
 その名主の役を安藤家が代々担ったわけである。ために代々安藤太郎左衛門と 称し、安藤太郎は三十代目に当たるという。いわば、小村の名家である。
 滑津村は明治になって参勤交替も無くなり、今や代表的僻村地となり七ケ宿 街道も交通量は激減したが、安藤家は永住して旧家を守っている。
 因みに、滑津の本家は太郎の長姉が婿養子をとり農林業を継承した。いわば 安藤は長男にも拘わらず東京に出稼ぎに出たといって良い。家を守った姉の子供は、 長男は七ケ宿町長、孫は現在若くして県会議員で、安藤家は何百年の伝統を継承 していることとなる。
 安藤は父源治郎が子弟の教育の為、仙台に借家し、宮城県師範付属小学校、 仙台第二中学校に学んだが、小さいころから非常に負けん気が強く、いつも 大将気取りだった。家には年中友達が群がっていた。
 二中に入ると、生意気だったから学校の帰りに五、六人の上級生が待ち伏せして いて殴られた。そのころからすでに、「俺はこう思う」と遠慮せずにやっていた。
 安藤は水戸高校を経て東大法学部を昭和九年に卒業した。
 そのまま仙台に居続けたら、恐らく地元の財界ぐらいで終わってしまうだろう という危惧があったからである。
 実家の姿を思った。この力に押されてはならぬ。胸のうちは大きかった。
 それはともかく、安藤は東大卒業後住友銀行に入行し、四十年間勤務することに なる。
 性格は豪放、小事にとらわれない率直な物言いをする人である。普通の銀行員に 比べれば異色だったが、個性を生かした働きで、副頭取にまで昇進した。
 在勤時代は所謂「モフ担(大蔵省担当)」として鳴らし、当時富士銀行の松澤、 三菱銀行の黒川両専務と並んで金融界の三羽ガラスと言われ、金融の自由化を叫んで 幾多の功績を残した。現在実現されつつある金融自由化を四十年前に提唱したのだが、 当時は護送船団方式で生き延びていた金融機関から猛反対を受け、マスコミからも たたかれる事が多かった。
 然し、時の実力頭取堀田庄三氏の寵愛を受け、羽振りも良かったために住友銀行 内部からも反感を買い、このせいか堀田氏の現職引退後安藤も引退して、住友不動 産社長に転出した。住友不動産行きは当時の不動産社長瀬山からのたっての要請も あり、四十九年四月社長に就任した。この時から約五年間、安藤には嘗て経験しな かった苦難の日が続くのである。
 四十九年は「オイルショック」の始まりで、物価が高騰しトイレットペーパーが 買い漁られた時代。金融引締めで金利は一割三分にも高騰した。全国地価が高騰し たのが一挙に暴落し、不動産業界が苦境に陥った矢先の社長就任であった。
 安藤は銀行時代経営者の一員ではあったが、官僚行政による護送船団方式時代が 続いたため、業績は毎年好況の持続で業務分野も預貸金の間接融資が主業で、 分野が極まっており「苦難の経営打開策」等が論議されることは一度も無かった。
 従って全くの素人が不動産社長に天下りしとようなもので途方に暮れたといっては 過言ではなかった。業績は売上額が借入金金利額を僅かに上回るという惨状であった。 ともかく後には引けず男一匹として立ち向かって難関を打開しなくてはならぬ。とも かく経営打開策を決めねばならない。瀬山会長はじめ内外の先輩や社員と相談し、
 一.経営の柱を東京都中心にビル建設。  二.宅地造成からは後退。  三.マンションは会社体力に相応し数を減らす。
 右に方針を決めたがこれが第一線職員から「銀行出に何が判るか」と大反発を 受けた。
 それに対し安藤は断固として強硬実行を貫く。その結果安藤は孤立無援となり、 顔つきも変わり妻子からも人相が変わったと言われる程の苦悩の日々が続いた。
 この時初めて、生来の人生観・価値観が大きく変わったという。
 とにかく仕事をするのには人の心を掴まなければできない。己を空しくして人を 信頼し、また人から信頼されねば仕事はできない。当たり前の事を六十歳を過ぎて から始めて知ったという。
 法話などは聞いた事もない安藤が「菩薩の心」とは己を空しくして人の為に 尽くす事が人の道であると法話に耳を傾けるようになった。勿論凡人でそうは いかないがともかくそうありたいと一生懸命努力するようになったと笑う。
 五〜六年経ってからは日本は世界の経済大国に成長し、又その後は「バブル時代」 を迎えて現在に至ったが、現在も経営は難しい情勢が続いているが、継承社長に 極めて有能な人材を迎えて、今やお家安泰の会社に成長し、連結決算で販売高 4000億を越えるまでに成長した。
 往来の強気一点張りの安藤の姿は消え、今は穏やかな好好爺と化したといって よい。
 本年九十歳。長生きの秘訣はと聞けば、一、健康 二、一握りの経済的豊かさ  三、感謝の念という三Kだと答える。「二」の経済的豊かさとは、昨年、学友が クラス会の帰宅タクシーに乗らずに電車で帰宅しカゼを引いて肺炎で亡くなって からこの項目を入れたと言っている。
 東京・新都心の一画にそびえるNSビルは、昭和五十八年秋、新宿で十一番目に 生まれた超高層ビルである。
 建設当時、住友不動産社長であった安藤は、このビルにモスクワの目抜き通りに あるのと同じ「コケコッコー時計」を作ろうと提案した。
 ほかのビルと区別するのには「なにか目玉がいる」という考えからだった。
 モスクワオリンピックでも評判がよかったので「制作費三億円で名前が知られれば 安いものだ」と皮算用をはじいた。
 ところが「日生が高すぎると反対したんだ」ということでできなくなった
 「ビルの総工費が五百五十億円。その一パーセントを惜しむとは残念至極だ」と 安藤はそのとき云っている。 
 結局「コケコッコー時計」は幻に終わり、一億円弱の大きなゼンマイ式「ゆっくり 時計」が吹き抜けの大壁面を飾り、今やNSビルの名物になっている。
 このビルにある安藤の部屋には元・総理大平正芳の「福生陰微禍生得意」との 偽書の額がある。
 穏微、即ち謙虚にしておれば幸福がやってくる。得意顔していると足元をすくわれ るという意味なそうだ。
 今から丁度二十年前。母校創立八十周年式典に際し、安藤と故岡原昌男最高 裁判所長官が在京同窓会を代表して全生徒に講演することとなり幹事の青山史朗が 随行した。
 この時青山はふとある事を思いついた。
 それは随分前の事だが、ゴルフプレー後の会談で聞いた安藤の初恋物語だあった。
 大学一年の時安藤は学友数人と例会の如く福島県相馬の原釜海水浴場での一夏 を過ごしたとき、その夏から別荘を建てた仙台のさる実業家の美しい令嬢と猛烈な 恋をした。
 今と違って手さえふれず、その恋はついに実る事はなかったがそれだけ忘れられ ない思い出となった。実らなかった理由は敢えて言わないが、双方とも未練が 無かったとは思っていないし、今でもそれを固く信じているとの述懐があった。
 安藤にとっては唯一の青春の思い出だと云った。
 「女性の名前が判ってる限りこの昔の恋人に引き合わせてやろう」と決心した 青山は名前を頼りに仙台の知人友人に電話をかけまくり彼女を探したが、なにせ 五十年も前の事とて手がかりさえも掴めなかった。ほとんどあきらめかけて最後に 同級生のOに電話したら「それがどうした、俺の姉だよ」というではないか。
 仙台ワシントンホテルの祝賀会で青山は安藤に耳打ちした。
 「彼女のことがわかりました。残念ながら東北大学病院に入院中で、ガンだそう です」
 「本当か。そうか、うーん。それではせめて花束だけでも受け取ってもらえるかな」
 宴会場入口の誰もいなくなった受付の席で、安藤はメッセージカードに万感の 思いを込めてペンを走らせた。
 病床に届いた花束を見て、彼女は遠い目で云った。「いまさらあの人にお目に かかってもねえ」それから間もなく彼女は亡くなった。享年七十歳だった。
 数か月後、仙台新寺小路の彼女の墓に詣でる安藤の姿があった。
 住友銀行時代「ケンカ太郎」と呼ばれた人の意外な優しさを知るのである。
 高齢にしてなお「生涯之(これ)現役」を目指す安藤の健康の秘訣は、週一回の ゴルフである。自ら開発して理事長を勤める泉カントリー倶楽部に、英国仕込みの しゃれた服装で颯爽と登場する。このコースは住友の社交場として東京近郊で 最も繁盛しているが、安藤は「いずれ日本一のメインテナンスの良いコースにして みせる」と豪語してはばからない。
 クラブハウスもユニークなものだが、これは付属小学校から二中まで山下設計 会長の故野崎謙三と喧嘩しいしい作ったそうである。


略歴

1910(明治43)年生まれ。
宮城県出身。 
仙台二中二十七回卒、水戸高、東大法学部卒。
住友銀行副頭取、住友不動産相談役。
国土審理議会会長。
日本高層住宅協会理事長、経団連常任理事、勲一等瑞宝章、東京都在住。



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