那須翔は1924(大正13)年九月、仙台市で生まれた。両親は和歌山県
田辺市の出身。父は東北大学医学部の教授だった。
父は翔の出生時にベルリンに派遣され、ロンドンとベルリンの間の飛行機に
乗ったことから、天駆ける、空を飛ぶという意味の「翔」という名前を付けた。
「しょう」と読む。
珍しい名前だったが、子供のころや軍隊生活でまともに「しょうちゃん」と
呼ばれることはなく「ボケナス(那須)とかシヨウ(翔)がねえ野郎だと
からかわれたものです」と笑う。
小学校のおわりに、仙台二中を受験するため補修授業を受けた帰り道、夕暮れ
の田んぼ道に街路灯が灯った。いまのようにいっせいにつくのではなく、少しずつ
遅れてつくのである。
「前方に電気が次々走っていくという記憶が鮮明に残ってます」
電気の記憶は、このころから鮮明だった。
小柄に少年が仙台二中に入ったのは1937(昭和12)年。五月にドイツと
アメリカを結ぶ巨大飛行船ヒンデンブルク号が初飛行で炎上、七月に廬溝橋で
謎の発砲事件が起きて日中全面戦争が始まった年だった。
「最後の試験でジフテリアにかかり、進級試験が受けられなかったが二年に
進級できた。進級させても大丈夫だということでしょう。そのとき隣にいたのが、
後の医学者和賀井敏夫さんでした。ずいぶんお世話になったような気がします」
学校を病気で長く休むなどで、クラブ活動には入らなかった。
「百メートルでも十三秒までは迫るが、それでは運動会の選手にはなれない。
全校マラソンでも三十番ぐらいにはなるんですが、陸上選手にはなれない。なにを
やらせてもそんなでした」
いささか謙遜しすぎだが、国語や英語の文化系は良く、1942(昭和17)年に
二高へ入学した。日本本土から一千三百メートル離れた太平洋上の米軍空母
ホーネットからB25十六機が日本の都心一帯を初空襲した年であった。
「明善寮に入り、一年でよかったのに二年いました。当時は塩釜のドックへ
勤労動員です。時々北六番町の二高へ戻る、そんな生活でしたね」
本来なら青春を謳歌するはずが、戦局の逼迫で学徒出陣が始まった。
1944(昭和19)年には徴兵検査を受け、一クラス四十人のうち十八人が
徴兵された。
二高には二年半いただけで九月に繰り上げ卒業。十月一日に東大法学部へ入った。
「本郷の構内で見た空は澄みきった青空で、そこをB29が白い飛行雲を
引いて行きました」
徴兵検査の結果は視力が弱くて第一乙だった。千葉県の陸軍野戦砲兵部隊に
特別幹部候補生で昭和二十年一月に入隊したが、戦地へはいかないうちに終戦を
迎えた。八か月の軍隊生活を終え、九月一日に仙台駅頭へ戻った。
幸い自宅は焼け残り、両親と二人の弟妹も無事だった。
すでに五月にドイツ軍が無条件降伏し、八月十五日には日本も降伏したが、
東京へ戻り、十月十五日に復学した。日本の財閥にGHQが解体命令を下した。
さんたんたる焼け野原だった。
那須たちはまず勉強の場所を確保しなければならなかった。幸い東京大学井の頭
寮はあったが、学生たちは、寮で停電が相次ぎ本が読めない。
当時の関東配電、いまの東電の吉祥寺営業所に掛け合いに行って、われわれの
寮にも電気をよこせと要求することになった。
寮のある三鷹市周辺は商店街で、農家や元軍需工場も混在しており、停電つづき
に困っていた。一方近くの米軍キャンプは電気が最優先で与えられ、明るい別世界
の不夜城だった。
那須たちは暗くて本も読めず、やむをえず山手線の電車に乗り、その車内灯で
読んでいた。那須は寮の委員で、先頭に立っていた。
抗議には商店や農家たちも率先して加わった。戦争中、暗い青春を送った人間に
とっては、光というものが新しい時代の象徴だったのである。
「ずいぶんロマンチシズムを感じたものです」
那須は今も毎朝、新聞のスポーツ欄を見て、野球や相撲のデータをスクラップする。
あこがれの職業はスポーツ記者だった。ヒロイズムに酔える世界にひかれるという。
停電の抗議がきっかけで深まった電気の縁で、東電の前身、関東配電へ入った。
面接したのは東京電力中興の祖、元会長の木川田一隆だった。停電交渉が
おもしろかったので、営業を希望したが、最初は文書係にされた。
五十一年に東京電力と改名。この年に見合い結婚した。日本の復興とともに会社
も急成長した。
総務部が長く、快刀乱麻の英雄とは対極ともいえる調整役に徹してきたが、
持ち前の知と理に情を加えて活躍した。電気がそのまま人格になったようだ。
民間では世界最大の電力会社。しかし原始的なもので常に天気が気になる。
特に夏は油断ができない。なによりも電気はストックがきかないから、常に
需要に応じて発電量を調整する必要がある。それに失敗すれば停電という最悪の
事態を招く。
盆休みの全国高等学校野球大会になると消費電力はぐんと跳ね上がる。だから
幹部ともなると一日中モニターを見ていた。
「電気は余っていませんから」が口癖だった。「もったいない」という、いまは
廃れた感の言葉を「日本から消してはいけない」と思っている。
長年の習慣で、会社の部屋を出て中に誰もいなくなると、反射的にすっと手が
伸びて、照明のスイッチを切る。ふだんの落ち着いた物腰とは違い、反射的な
素早さだ。
1961(昭和36)年、電気事業法の制定で電力業界が浮足立っていたころ、
総務課長だった後の社長平岩外四と、同じく現社長の木川田が、電気事業連合会
へ出向させる人物を物色していた。
通産官僚と真っ向からぶつかり合うことになるポストに、那須をあてたのである。
このとき那須は三十八歳の働き盛りだった。
当時は電気事業を官僚統制の枠内に閉じ込めようとする国や通産省と、私企業の
立場を貫く電力の主導権争いが熾烈だった。
料金の認可制に見られるように、電力会社は独占事業としての性格から、
いろいろな制約を国から課せらている。
那須は電力側の法制面の担当者をすることに決まった。
「お願いするという気持ちを捨て、交渉は法律を作るための協議で、立場は
対等だ」
那須には電力は民営が最善だという思いがあった。そして勝ち取った成果の一つが、
社債発行額の届け出だ。これまで通産省に届けなければならなかったのを廃止させた。
「規制緩和の先取りといっても不遜ではありませんでした。あのとき頑張らなけ
れば赤字国鉄の二の舞になりかねませんでした。人事介入というか、天下りの
要求もはねつけましたし」
平岩がほめていった。
「公益事業であっても、公共事業ではない。そういうことを那須君独自の視点で
実務として仕上げたのは立派だった。完璧に近い中身だ」
那須は企画部調査課長で本店に戻り、十歳上の平岩をほぼ十年遅れで追いかける。
木川田や次の社長平岩外四と続いた知性派経営者の系譜を完全に受け継いでいた。
社長になったのは1984(昭和59)年六月だった。
平岩は東電の相談役室で雑誌「アエラ」の「現代の肖像」に取り上げられた
東京電力会長、那須翔の筆者、ジャーナリスト寺光忠男へ、次のように語っている。
「自分を律するに厳しい余り、面白みがないと世間はいうが、それが那須君ですよ。
そこに面白味がある」
「官僚的な会社だ、といわれるほどはずかしいことはない」というのが持論だ。
1987年七月一日、新マークを十月からに決めた。深紅で描いた円を結びつけた。
環境との調和、全体としての総合力を表した。
会社の呼称は東京電力に加え、英文訳の頭文字をとったTEPCO(テプコ)を
加えた。このときエネルギー未来開発センターと熱供給事業課を新設した。
昭和六十二年二月は暖冬で、山間部の少ない積雪が早く解けはじめてしまい、
「春先から頼るはずの水力電気が気がかりで」と、電力事業には魔の甲子園
野球大会大詰めの頃を思い出す。
「雷というのが電気と親戚なんですけど、長年お付き合いがうまく行っていない
んです。不可抗力的に停電を呼ぶ。昔から雨乞いをしたり、天候に左右される
仕事でして。これでは電気屋じゃなくて天気屋ですねえ」
1990(平成2)年十一月、五年越しに原子(核)燃料サイクル施設の建設が
進んでいる青森県六ヶ所村へ行った。反対運動が始まり、施設建設の凍結を訴えた
村長が当選していた。
那須はここでも話し合いを重視した。困難極まりなく見えた交渉だったが、
辛抱つよく話し合いを続け、村長の「凍結」公約を「慎重な推進」と改めた。
役場から出た那須の乗用車が反核燃グループに取り囲まれたとき、那須が表情も
変えなかったのを村長は見逃さず、
「この人がいる限り、立村地としてはある意味で安心だ」といわせた。
「なにをやっても叱られるのが電力会社です」ともいった。逆に、なにをやられ
てもびくともしないぞという決心がみなぎっていた。誠実一路。これに尽きた。
1993(平成5)年、会長、いまは顧問。こんどは長年の広い付き合いから、
日本と韓国が共同開催するサッカーの2002年ワールドカップ(W杯)の
日本側組織委員会会長になって、精力的に動き回っている。
大会は1999年八月、決勝会場を横浜国際球技場に、準決勝会場を埼玉県営
サッカー場にすることに決めた。那須会長は「一人でも多くの方にW杯の決勝を
見てもらうことを第一に考えました」といった。
「和して同ぜず」が座右の銘であるが、上役へのごますりをやめ、私の顔色で
意見を変えない部下がほしいと信条を述べている。
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