十五年ほど前、すでに兜町で「西澤潤一博士」といえば知らぬ者はなく、
彼関係のうわさが流れただけでその企業の株がぐんと上がった。光通信の世界の
先駆者だからだ。しかし時代の寵児となった西澤も、少し前までは世に容れられ
なかった。光通信の父も、その前のPINダイオードにはじまるエネルギー関連の
大業績も含めて、半生は茨におおわれていたのである。
1926(大正15)年、7年にできた東北帝大工学部教授の父西澤恭助と秋子
の第二子、長男として仙台市米ヶ袋の現住所に生まれた。以来この家を離れたのは、
寮に入った高校時代と戦後数年だけだった。
子供のころから漠然とだがエジソンのような人になりたいと思っていた。頭は
良かったが、体は弱かった。小学校へ入る前に盲腸炎を患ったが、体が弱いと
いうので手術をせず、冷やして止めた。片平丁小学校に入った。先輩に志賀潔博士、
野副鉄男博士がおられる。
虚弱なのでよく休んだ。そのくせいたずらっ子だった。三年のとき家中のみんなが
腸チフスにかかり、数ヶ月も隔離されてしまった。二人いた手伝いのうち一人が
買い食いをして、体の調子がおかしくなったのにバレるのを恐れ黙っていた。
彼女が炊事をやっていたからひとたまりもなかった。
六年で中学の受験勉強が始まった。一生忘れ得ぬ恩師高橋裕先生との出会いは、
五年の時全く受験勉強をさせられなかったのを心配して一部父兄が騒ぎ出して
担任が交替したことによる。前の千葉先生にも評価されたためか、西澤は次第に
勉強に興味を持ち出していて、一番ということで県知事賞をもらうことになって
いたが、同級の母が、西澤の古いいたずら事件を蒸し返えし「あの生徒は
県知事賞に値しない」と教頭に直訴して外された。教育ママは昔も厳然といたのである。
旧制仙台二中に入った。二中は昔から規律正しい上、中国との戦争が始まって
戦時色に包まれていた。毎年一度の塩釜行軍では朝五時に青葉神社へ集まり隊伍を
組んで二十キロ先の塩釜に行き、昼食後、各クラス毎に、隠れて規律・団体・時間
の点数をつける教員の前を仙台に戻る。
毎週土曜には牛越橋を回り隊伍を組んでマラソン大会をし、同じく一年に一度
折立まで全校生徒が走り平均時間をクラス別で競う。
長距離ではなんとか人並みに走れたが、よく腹痛を起こして順位を下げた。この
時に鍛えた足腰が、一生の健康の源になったし、二年の時、林信夫知事が来学しての
講演「未見の我を発見せよ」が一生の精神的支柱になった。人間には必ず他の誰より
も優れた才能があるが、必死の努力がなければ、表には出てこず、親にも本人にも
分からない。
クラブ活動は絵画部で、小学校のころからよく描いていたが手本を見て描くのは
嫌いだった。三年、絵画展の準備をしていた時、海兵受験準備中だった仲瀬清久先輩
の言動は、一生忘れられない影を心に落としたという。海軍特別攻撃機敷島隊隊長
として戦死した人である。
西澤は小学校時代に勧められて木刀剣道をやり人並み以上だったが、三年から
運動部加入が義務付けられ庭球部だった。入学成績は二百二十何人かの二十三番で、
暫くして実力試験があった時は八十番かで父に叱られビンタが飛んだ。ようやく
三年から自発的に勉強するようになり、十番以内に入るようになった。
中学四年になり、高等学校目指して猛烈な受験勉強が始まった。学校では四年、
五年、補修科、つまり浪人を一緒に模擬試験へ挑戦させ、成績順位が雨天体操場に
掲示される。一年に三、四回実施され、最後は四年生がトップになるのだが、
理科系で四年トップだった西澤は体力が続かず、全体のトップになれなかった。
数学の計算問題でうっかりミスが多いのに気がついて、毎日鉛筆一本使い切るぐらい
計算問題をやり、集中力をつけることに努めた反面、昼の授業では居眠りの名人
といわれた。
二高は全寮制で、科学部科学寮に入った。物理研究班の希望者が多いので遠慮して、
嫌いな科学研究班に入った。広瀬川や鬼首温泉の分析研究に従事すると共に、
過酸化水素水の分解の研究というのをさせて貰ったがお世辞にもうまいとは言え
なかった。後年この経験が役に立った。
二年は戦争末期の1944(昭和19)年で、夏休みまで農作業の手伝い。その
あと大学へ繰り上げ入学する上級生に替わって工場動員となり、まったく勉強とは
縁がなくなった。昼夜一週間交替の十三時間勤務、最後まで頑張ったが、十二月の
塩釜空襲があった日、大学病院で検診を受け、三月まで欠席し、二年に短縮された
旧制二高を終わる。この間に漱石全集を読んだ。
二高の教育は他の高等学校と同じく、独立した自分の生き方を把握させることに
主眼があったが、それぞれ独特なところがあった。二高は仏教的思想が強く、
小欲を去って大欲につかせた。
終戦寸前、内申書だけで東北帝大工学部電気工学科に入学した。本当は理学部へ
行って原子核の研究か数学基礎論をやりたかったのだが、父親から許されなかった。
しぶしぶの入学だったし授業も歯が欠けたようで、研究所の間引き疎開を手伝う
といったことが多かった。
本も教科書以外はクラス全体に一冊というような配給で、ほとんど手に入らな
かった。七月十日未明に仙台空襲があり、八月十五日、終戦。
中国東北地方をはじめ各地から、死ななかった幸運な日本人が引き上げてくるが、
仕事も食べるものもない状況を見て、なんとか九千人の日本人に、せめてひもじい
思いをさせないようにできないかと考えているうちに、新工業を起こすしかないこと
に気づき始め、工学部に入った意義に目覚めた。
同時に彼が、工学部と科学とはヒューマニズムの結びついたものであるとする
一生の基盤とした思想が認識された。この考え方が、グラスゴー大学ケルビン男爵
を原点として田中館愛橘・本多光太郎によって東北大学に伝えられ、八木秀次や
父から教えられていた学風だと気がつくのは大分あとのことになる。同時に学問に
対し積極的になり、実験を重視するようになったブリツジマンの「現代物理学の論理」
に出会い、地の塩たらんと志した。
食糧事情は戦後ひどくなり、一軒だけ焼け残っていた自宅は米軍に接収され、
十二軒丁と石切町に部屋を貸してもらって分住、そのうちに体の弱かった母は
病床につき死亡した。
兄弟で朝食と夕食を分担して暮らすという最悪の事態になったとき、妹はまだ
中学一年と小学三年だった。
1947(昭和22)年十二月、十一年余をかけて成功したトランジスタの話が
日本に伝わったのは、翌年末だった。
西澤は実験をやりたくて放電管の研究室において貰っていたが、翌春、トランジ
スタの研究に合流するよう指示が出た。
「はやっているものはやりたくない」
などといって、遅れて参加したが、まだ、
「ゲルマニウムとは何だ」
という始末で、見渡しても何もない。
何もないづくめの最悪な環境だった。研究費を頼みに行っても、
「出来るか出来ないかわからないものに研究費がだせるか」
と相手にされなかった。わからんものを実現するのが研究なのにと思ったものだ。
振り返って見ると、光通信の基本要素をすべて発明したのに、実験がほとんど
できなかったので、今度は材料をよくしようと考える。決してくじけることがなかった。
西澤にとって、多くの場合「闘い」という修羅場をくぐっていた。
彼の業績で、特許をとっているPINダイオードの発表のとき、半導体レーザーを
考案しそれを具体化しようとしたとき、収束型光ファイバーを発明したとき、
高輝度発光ダイオードを開発したとき、静電誘導トランジスタ(SIT)を工業化
しようとしたときなど、その研究のほとんどが、日本の学会や産業界ですんなりと
認められ、受け入れられるものではなかった。
西澤は常に自分で考えるという独創研究を貫いた。それだけ日本の社会での
拒絶反応は強かったのだ。
例えばPINダイオードは1958(昭和33)年に、大学で手作りした設備を
使って試作に成功した。耐圧2300ボルト、百アンペアで順方向1.5ボルトと
いう、当時としては画期的なダイオードだった。しかし、
「アメリカでもできないのに、日本でできるわけがない」
と、企業はすべてけんもほろろだった。
その後初めて欧州旅行をしたが、アメリカのウェスティングハウス社では両肩を
つかまれ、
「ダイオードの作り方を教えろ」
と迫られるほどだった。
それでも日本のメーカーは西澤の特許を無視してアメリカのGE社から買ったり
していた。
彼の研究を相手にしなかった大手企業が、いまは西澤にひざまづいている。
西澤は、戦後の廃墟から立ち上がり、創造科学技術でさらに国力をつけたいと
願っている。
趣味は多彩で、音楽はクラシック愛好家。レコードは二千枚も集めている。特に
バッハのカンタータに強く魅かれ、そこからバロック音楽、さらにはフランドル学派
を好んでいる。
もう一つは絵画。セザンヌ、ルノワール、マチス、ピカソ、ルオー、モネなどが
好きだ。東京でブリジストン美術館が開館するとき、モネの「睡蓮」が紹介された。
それがあまりに素晴らしかったので、開館を待ちかねて見に行った。それほど子供の
時から絵画が好きだった。偉大な芸術家は素晴らしい作品をたくさん残している。
それらを旅行ごとに見続けるうち、心が次第に洗われて行く思いだった。
1971(昭和46)年、パリの国立マルモッタン美術館に飾ってあるモネの
「睡蓮」を見ていたら、どうも絵が逆さまだ。しかし逆さに気づかないはずはないと、
そのまま帰ってきた。翌年ふたたび行くとまだそのままである。そこで名刺にその旨
を書き、守衛に渡して帰った。この話はただちに「ル・モンド」が取り上げた。
絵画鑑賞でも西澤は一流である。
|