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オール・バイ・マイセルフ
吉田 直哉 中島信吾著

 「創造は人間の中の高度の少年の部分がやるのである。音楽、絵画、詩、むろん
テレビ制作もそうだろうし、恋愛もつねにそうである。彼(吉田直哉)の中の
”少年”はテレビ勃興とともにすごしてきて、その新しい表現の場で思いきった
主題を展開してきた。・・・」
平成元年、NHKスペシャル「太郎の国の物語」にテレビ出演した作家、司馬遼太郎
の吉田直哉評である。この番組は司馬の歴史観を通じて、明治時代を生きた人々を
語る、映像による日本人論で、テレビ演出家、吉田直哉のNHK卒業記念の思い出
の深い作品である。
司馬の吉田評は続く。「もう十分つくったでしょう。が、どうしてもやるという」
 「なんど断られても”少年”はいつもいきいきとした目で私の家の戸をたたくの
である。そのつど、彼は私の中で乏しくなりつつある”少年”の部分をゆさぶっては、
近所の原っぱにつれてゆき、この本(明治という国家)の内容の事を、少しずつ
語りあい、ついには遂げさせてしまった」吉田の瞬間に放つ”少年”の輝きを
司馬遼太郎は深く読みとったのである。
 「良い問いは答えより重要だ」
 常識的な答えだけを知っている人間になるより、根源的に問う人になれという
意味で、吉田は南カルフォルニア大学の数学者リチャード・ベルマンのこの言葉を
座右の銘としている。
 1931(昭和6)年四月一日、吉田直哉は、父富三・母喜美子の四人弟妹の
長男として東京で生まれた。父富三は、文化勲章受章・東大名誉教授・癌研究
所長で、日本の癌研究の第一人者で草分けの一人である。
 小学校は東京の小石川区立駕籠町小学校。二年生の時、父の転勤で長崎へ。
原爆投下(1945年8月9日)の一年前の中学二年夏まで過ごした。
 「好奇心を持ち続けろ」が父富三の口ぐせ。吉田は日夜顕微鏡を眺める父から
発する言葉の洗礼を受ける形で彼の思想は形成された。悪いことをしない限り
おこられることはなかった。
父と吉田少年はよく長崎の坂道を散歩した。こんな記憶がある。「癌細胞を注意
していると、かならず多数派と少数派にわかれる。例えば100個の細胞に対して
20個の少数は。社会も同じだ。多数派が正常ということになりやすいが、しかし
少数派だと思って無視していると、時に突然、多数派に移行するんだ。細胞の数の
逆転、遷移と同じように」
 吉田はこの父の話を面白く聴いた。思考のプロセスをかいつまんで話す父の言葉の
余白は自分で補いながら全体の意味を感じとった。だからのちに敗戦で価値の逆転が
おこったとき「なるほど、これが多数派への移行か」と思うことができた。
 小学校から中学までの成績は体操を除いて甲乙丙の採点では常に上位の甲。
特に国語と幾何、図画、それに生物が得意だった。
 また、青く広い海にもあこがれた。遠洋航海の船に乗りたい一心で小学校四年生
から海洋少年団に入団した。今でも手旗信号が出来ロープを結ぶことが出来ると
当時を振り返る。
1944(昭和19)年、父富三が東北大学医学部教授になったため一家は仙台に
移り、吉田は仙台二中に転校した。
 一年後原爆は吉田一家が住んでいた土地、浦上で炸裂した。多くの親友を失った。
その長崎に吉田は二つの思い出がある。
 読めない墓碑銘の刻まれた墓の林立する坂本の外人墓地。
おそろしく沢山の国籍の、さまざまな墓がある。どんな人が、ここに葬られることに
なったのか墓から墓へと歩きながら夢想するのは、吉田の子供心にも哀切のロマン
だった。
もう一つは、大波止の堤防に腰かけて、船の勇姿を眺めながら、”遠くへいきたい、
遠くへいきたい”と念仏を唱えたことだった。後にテレビという仕事をすることに
なり、海外取材が多くなったこともこの呪文のおかげだと思った。
 ある日、山の上から少年吉田は軍が機密にしているものを見た。三菱造船所ドッグ
から進水、艤装中の「大和」の巨大な姿だ。「もうアメリカと開戦したって勝つ」
と友と肩を叩きあって喜んだ。しかし後になって機密の情報取得の喜びより必要
だったのは、良い問いを発する能力だったことに気がついた。それが無かったと
反省する。
 「しかし、その能力はすぐに仙台二中で養われた」と吉田は回顧する。
 とりわけ国文の授業はすばらしかった。終戦直後の混乱期にもかかわらず、
渡辺義夫、小針寿一、庄司善助、松崎喜一郎らの諸先生による古文、漢文教育は
最高で、文字どおり目からウロコを落としてくれた。「より高く」を志さねば
ならないという気持ちは仙台二中の教室で養われたと吉田は断言する。
 仙台二中を卒業後、旧制第二高等学校を学制改革のため一年で終わる。
1953(昭和28)年東大文学部の西洋哲学科を卒業。同年NHKに入局。
 五十八才でNHKを退局するまで三十七年間、吉田は数多くのすぐれた作品を、
ラジオ、テレビに残している。
 何より1957(昭和32)年彼が二十六才のとき始めた「日本の素顔」シリーズ、
そして「現代の記録」は、テレビドキュメンタリーの草分けとなった。前者には
「日本人と次郎長」「ある玉砕部隊の名簿」「古城落成」後者には「死者の来る場所」
「信仰の器」などの代表作があるが、吉田は「これらはみな映像による日本人論の
つもりでつくった」と語る。
 その後も国内外に取材しつづけた彼のドキュメンタリー制作の創造の原点はどこに
あったのか。原爆から四年後(昭和24年)吉田ははじめて長崎を訪れた。
 「浦上天主堂のほうへ近づいてみたが、あの澄んだ鐘の音はもうどこにもなかった。
そしてその残骸がみえるところまで行って、とどめを刺されて硬直したのだった。
( 中 略 )
傷ついた天使たちの顔がいくつとも知れぬほど、夏草のあいだから天を仰いでいる
のを発見したのである。片目の天使、顔の半分欠けた天使。いくつもの石の天使が、
信じられないことのおこった天を見あげている。黒く汚れて−。まるでケロイド
のようだ。
 石にも、天使にも、ケロイドはできるのだろうか・・・。
 息をとめて私は凝視し、生まれてはじめてカメラのことを思った。
 誰が、こんな構図を空想で考えることができよう。
 ことばは、空想を描写するには向いているかも知れない。しかし、この思いも
かけぬ現実、この実在を描けるものはなにか。絵でもあるまい。
 「カメラ!」と、そのとき生まれてはじめて映像のことを思い、この世に映像で
しか表現できない何かが、確実にあることを知ったのである」
 著書「夢うつつの図鑑」より
 吉田が映像というものを見て表現の手段にする職業「テレビ演出家」になったのは
この体験からだった。
 昭和三十五年「東南アジアを行く」を担当して、インド・ニューデリーの国営放送
を訪れた。インドではまだラジオだけでテレビ放送は行われていなかったが、
それだけに先進国NHKの取材班がくるというので副会長が編成局長が出迎えると
いう大げさなことになった。
 そして会ってみると相手には驚きと失望も大きかったらしい。
 「たった二人か。台本は誰が書くのか?企画は?」
 撮影は志村カメラマンがひとりで行い、吉田が企画、台本のほかに照明も担当
しているとわかると、にわかに巻舌の英語が騒々しくなって、いやに真剣に
年齢をきいてきた。
「二十九才です」
「二十九?で、イギリスには何年留学したの?BBC(英国放送協会)には何年?」
 世にうぬぼれ程始末におえないものはない。そんなにすごいキングス・イングリッシュ
に聞こえるのかオレの英語は、と鼻をうごめかしつつ、留学なんぞしたこともないし、
第一日本から出たのははじめてだと答えた。
 「それで、どこでテレビを学んだのか?BBCに留学しなければ、できるように
なるわけはないじゃないか」そういうことか。植民地育ちは宗主国なしでは、
なにもできないのか。
 「イギリスなんか関係ない。日本で学んだ。自分で覚えた。・・・バイ・マイセルフ!
オール・バイ・マイセルフ!」
 副会長が大きく首を横に振っている。信じていない。何と疑い深いと軽蔑したが、
その後インドでは首を横に振るのが肯定の仕草だと知った。
 この逸話は、何でも手探りで開拓しなければならなかった振興メディアに携わった
吉田の気負いが微笑ましく私たちの心に届く。
 昭和四十年(1965年)からドラマに転ずるが彼の主な作品を紹介する。
1961年 日本の文様 (ベルギー王立実験映画祭大賞)
1965年 大河ドラマ 太閤記
1966年 大河ドラマ 源義経
1968年 海外取材 明治百年 (芸術選奨文部大臣賞)
1970年 樅の木は残った
1973年 TV放送20周年記念 国境のない伝記〜クーデンホーフ家の人びと〜 
1975年 NHK放送開始50周年記念 未来への遺産(放送文化基金賞本賞)
1977年 遠野物語をゆく
1978年 TV放送開始25周年・ブラジル移民70周年記念 コロニアの歌声
 (テレビ大賞)
 ポロロッカ・アマゾンの大逆流(毎日芸術賞)
1984年 21世紀は警告する(ギャラクシー賞大賞)
1987年 ミツコ−2つの世紀末
1989年 NHKスペシャル 太郎の国の物語
1990年 (日本記者クラブ賞)(前島密賞)
 筆が立ち、エッセイも書く。小説も発表し「ジヨナリアの噂」は昭和六十三年
芥川賞候補になった。
「ドラマもドキュメンタリーも表現の手段、ものを書く際もアプローチは多彩な
ほうがいい」
好奇心を多彩に表現してきた吉田直哉。六年前食道癌を手術、その詳細は新著
「脳内イメージと映像」(文春新書)に記録されているが、経過も順調で回復の
兆しを見せている。吉田直哉の制作作法の魔法は、今映像から活字の新領域へ、
挑戦はとどまるところを知らないのである。


著書に「砂の曼陀羅」「森羅映像」「癌細胞はこう語った」「私伝吉田富三」以上
(文芸春秋)
 「蝶の埋葬」(岩波書店)
 他多数。


略歴

1931(昭和6)年東京都生まれ。
仙台二高一回卒。
旧制二高、東大文学部卒。
昭和二十八年NHK入局、ラジオの構成番組を担当後テレビに移り、
映像作品の企画演出家として多くの名作を生む。
元NHK特別主幹、武蔵野美大参与。



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