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仙台二高同窓会報

「競走」としての自己発見

仙台二高同窓会長
西澤潤一

 同窓会があって恩師旧友にお会いして久々の昔の思い出話に興ずるのは大変楽しい ことだが、我々の時代の中学校と比較して、高校になると三年歳上になるから、 只昔を懐かしむのとは可成変わって、自己主張もあり、その自己主張が世の中に出て、 押し勝ち、融合し進歩し、或いはまた傷つく。その喜びと悲しみを持ち寄って、 温め、或いは励まし合う。その友達と会うのが大人の同窓会だと思う。
 そのためには、在校時代よく語り合い、時にはぶつかり合って、人生のロマンを 協力して肥みとっておく前提が要る。相手が何を考えているのか、 どんな風に成長して行ったのかをよく見ていてくれた友は、そこはかとない不安に 疲れた心を慰め励まし、そして、アドバイスまでしてくれる。だから、学校時代、 心温かい同窓生が居てくれることが何物にも換え難い大切なことなのだ。
 そんなことを言っても、未だ若い高校生に、そこまで要求するのは無理と云うもの、 まして昔はとても考えられなかったような激烈な入学試験勉強から逃げる術のない 今日の高校生活では殆んど無理と云わざるを得ない。けれども、一高生の集まりに 感ぜられる雰囲気は、我が二高生の集まりで感ぜられるそれとは明らかに違う。 何と云っても三年間の多感な時期に、毎日何時間か一緒に暮らした結果は明らかに 我等の人生に可成大きな影響を与え、考えかたを通して可成大きな雰囲気の違いを 生じさせていることになる。
 それが日常の仕事のやり方に皆影響しているので、個々の仕事の差は大きいから、 仲仲判断はし難いが、全体として見ると、矢張り、二高卒業生のやり方として特徴 があることになる。世の中としては偏らない、互いに補い合えるようにいろいろな 経歴の人達が協力し合って仕事をする事が出来る混合方式で人事構成するのがよい ことが多いが、二高卒業生としは、やはり二高の教育方針や雰囲気を絶えず優れた ものにしてゆく学校の教育活動に協力してゆくのは勿論、生徒たちの成長を見守り、 また我々自身がよき範となるように努力をつづけてゆかなければならないだろう。
 私は前から二高の伝統は、智的で冷静だが、中には強い意志と何事をも恐れない 勇気があることではないかと考えて来た。三船九蔵十段と云えば講道館の歴史の 中でも右に出る者はあるまいと云われている最高の業の持ち主であるが、体に手が 触れたとも見えないのに相手が素っ飛んでしまうと述べられてあった。 兎に角非凡な技を持っておられて、一見静かとも見える動きは、実は目にも止まらぬ 激しさなのである。
 何回か甲子園に行って、しかも予想もしない好成績を挙げた野球にしても、 一見余り評価されない目立たない投球が実は大変な魔球で打てそうで打てないでいる うちに試合が終わってしまったと準決勝まで行った二階堂投手の試合の様子を伺った ことがある。勿論、更にその上に剛速球投手が生まれて呉れることは大いに望ましい ことだが、二高の歴史の中で見る限り、柔道にしても野球にしても、智的な技巧派の 成長が特徴だったのではないかと、体育に全く自信のない私は考えている。
 同窓会が単に派閥の枠となるだけで、排他的になっているとしたら、これは正に 日本と云う社会に害毒を流すことになるので、同窓会のあるべき姿ではない。 同窓で語り合った人生のロマンを、共に力を尽くして現世に実現してゆこうと各 方面で力を尽くし、時に集り時に合ってゆくのこそ、本来の同窓会ではないかと 考える。
 宮城県を素晴しい県土とするためには、その基幹として二高は勿論、一高・三高 等々の基幹高校卒業生が協力し合い、相補い、特徴を生かしてゆくことこそ大切で あり、日本全体を豊かな国にするためには、日本全体の高校が、全く同じく、 すべての持てる能力を出し合って、物心両面に亘って世界トップ級の実力を組み 上げてゆくことが、そのすべてであると云える。
 最近、それがすべてであるかの如く誤っているのは、競争で、他人を負かしても 県全体や国全体が沈没しては何にもならない。私は競争と云うのをやめて競走と 云おうと何時も言っているが、相手の胸を借りて張り合ってやってゆくことで 何時もより早く走ることが出来る事で、自分がもっと早く走れることを発見する、 自己発見が本当の目標なのだ。だから足を蹴って転ばせて勝っても何にもならない。 終れば、お蔭様でと礼を述べ合うのだ。
 こんな一環として我が同窓会があるのだと、これからも果たしてゆくべき仕事の 大きさに自戒している。


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