「君が仙台二高出身というのは、以前から知っていたので、機会を見つけて、
ぜひ聞いてもらいたいと思っていた」
───30年来のジャーナリスト仲間である松浦孝義さん(東京在住)が、こう切り出した。
3月半ば、ある都内の立食パーティーで、久しぶりに、彼に再会した時のことだった。
太平洋側と日本海側と、遠く隔てた宮城県立仙台二高と新潟県立柏崎高校が、蔵王遭難の悲劇の糸で、結びついているという、思いもつかない衝撃的事実だった。それは、涙を誘う感動の秘話でもあった。
柏崎高校といえば、前身が旧制柏崎中で、創立104年の歴史があり、政、官、財、学の各界に幾多の人材を輩出している上越地方の名門校である。新潟県の平山征夫知事(現職)も同窓生である。皇太子妃・雅子さまの祖父、小和田毅さんが14代目の校長をつとめ、また父、小和田恒さん(国際司法裁判所判事、元国連大使)が2年余在学したことでも知られている。最近は、昨春の選抜高校野球に、21世紀枠で初出場して話題になり、北朝鮮拉致被害者の一人、蓮池薫さんの出身校として、つとに有名になっている。
その柏崎高校と仙台二高が、どうして?身を乗り出して聞き入る私に、数日後、松浦さんは"証拠"となる、柏崎中・柏崎高同窓会報や在京同窓会報など10数点の資料を届けてくれた。実は、彼自身が柏崎高の出身者で、私と同様に"人生の午後"を迎えた今、在京同窓会の事務局長を引き受け、会報の編集にも携わっているということもわかった。事実に詳しいのも道理である。
資料を一読して要約した結果を、お伝えしたい。
両校を橋渡ししたのは、明治生まれの気骨の教育者、渡辺文敏さんである。渡辺さんは、旧制柏崎中の初代校長をつとめている。
経歴をたどると、1870年(明治3年)山形県西田川郡鶴岡町生まれ。高等師範学校卒業後、教職に就き、1900年(明治33年)に創立した柏崎中の初代校長となり、7年余在職した。その後、新潟・新発田中、秋田・本荘中、新潟中の校長を経て、1913年(大正2年)に仙台二中に3代目の校長として迎えられている。つまり、時を隔てて、柏崎中と仙台二中の両校長をつとめていたのである。
そして、仙台二中在校時に、あの悲劇に見舞われる。「大正7年(1918年)10月23日、教諭4人が引率し151人の生徒が蔵王登山中に、大吹雪に閉じ込められ、道を見失った9人(生徒7人、教諭2人)が遭難死した痛ましい事件である。
仙台二高(現在)側では今も、世紀を越えて言い伝えられ、供養を続けている創立以来の最大の悲劇である。
渡辺校長は、この遭難の責任を取って48歳で職を辞している。
引責辞任後、渡辺一家は東京・千駄ヶ谷に転居している。
渡辺さんは、周囲から再三、再就職のすすめがあったが、すべて断り、ひたすら、犠牲者の鎮魂と慰霊につとめる日々で、二度と教壇に立つことはなかったという。
渡辺さんの遺児で、三女の宮崎のぶ子さんが、創立90周年記念の柏崎高同窓会誌に手記を寄せている。
その中から、遭難に関する記述を抜粋する。
「父が仙台二中在職中、学生の修学旅行で、蔵王の山越えの時、とても痛ましい事件が起こってしまいました。
それは、登山の途中、俄かな天候の激変で、大吹雪となり、ついに山中の石室の中で、二人の先生と七人の生徒が凍死してしまったのです。
言葉も無いほどの悲しい事件が起こってしまいました。
父は事件後の、いろいろな処理を果たし、済ませ、責任を取って退職し、家族は東京に移り住むことになりました。
それからの父は、どなたのご親切な(再就職についての)お計らいも、断りつづけました。
母は、これからの生活の事もあるだろうしと、とても父の態度を訝しく思ったそうです。
しかし、ある機会に、父の真意を知り、父の胸中の傷み、悲しみの深さに胸うたれ、それからは何も言えなかった、と後になって母から聞かされました。
それは『遺族の方々の心中を思えば、自分の事など、今はとても考えられぬ。亡くなった方々の冥福を心で祈らせてもらっている』と父が言っていたことを、どなたかからのお話で、母が知ったからとのことでした。
私は豪放そうな父の、別の一面を知り、涙ぐんでしまったことを覚えております」
ちなみに、仙台二中、二高100年史の中では、渡辺さんについて、以下のような記述がある。
「大人(たいじん)の風貌があり、豪放に見えて細心周到なところがあり、威厳の中に温情のあった人である。学校経営に熱意を有し、教育内容の充実と校風の刷新に鋭意努力された。蔵王遭難事件で、責任をとり退職されたが、渡辺校長に対する非難はなかった」と。
だが、渡辺さんの悲運の系譜は、ここで、とどまらなかった。
柏崎を離れて、20年後の1928年(昭和3年)10月16日に、懐かしい柏崎中の講演に、講師として招かれている。
講堂の演壇に立ち、全校生650人(該当、中25回〜29回)を前に創立当時の思い出や苦労話をしているうちに、突然、その場で倒れ、帰らぬ人となった。
59年の数奇を極めた生涯であり、悲しくも劇的な最期であった。
70周年誌には、その最期を眼前にした、当時の3年東組、堀田丈一さんの、学級日誌が掲載されている。
「渡辺先生、壇上より倒らる。我等後輩のために、我校創立の輝かしき歴史を伝へられしに。
我等、静に講堂を退出するや、期せずして校庭に集合せり。
凡そ十分間といふものは、我等一人一人感慨にふける。
教室に残れる皆の所へ、先生お亡くなりの報が伝はる。
嗚呼、先生、無事なれと祈りしに。
『柏中創立当初の学生は、実に熱があった。
何事にも先生の力を借りずに、立派に行動した』───あの先生のお言葉、何条我等、大いに反省し、よく考へずにをられやぅぞ!」と。
渡辺さんの三男、渡辺宏さんも「父は奇しくも、死所を懐かしい柏崎中に得ました」と手記を寄せている。
「父が急死した時、渋谷区の千駄ヶ谷に住んでおり、私はまだ小学6年生でした。
父が大きい古ぼけた革トランクを持ち、中折れ帽子に太いステッキをつき、柏崎に出かける姿を門まで見送りましたが、これが最後の別れとなりました」と綴っている。
懐旧の心はずむ旅立ちだったと思えるのだが、時の定めは、暗転の終着駅を用意していた。
「渡辺校長追思碑」──創立30周年を迎えた1930年(昭和5年)に、柏崎中の校舎の前庭に、故人の記念碑が立てられた。
急逝をいたみ、功績をたたえる、追悼の言葉が刻まれている。
柏崎高創立100周年記念の式典(2000年11月)に、三男宏さんなど、渡辺さんの遺族4人が招かれ、この記念碑に対面している。
「父の碑が、私立の学校ならいざ知らず、公立の学校で、70年間も温かく、お守りいただことは、まったく感謝にたえません」
宏さんは、用意した祝辞そっちのけで、感激の挨拶をしている。
しかし、このレポートは、ここで終わらない。渡辺校長の蔵王遭難者への鎮魂の遺志が、遺児、宏さんに引き継がれていることを特記しなければならない。
情報源の、松浦孝義さんの話によると、宏さんは、これまでに三度、蔵王に慰霊の登山をしている。
一度と二度目は、遭難現場が確かめられず、引き帰したが、三度目に、やっと発見したそうである。
タイムトンネルをくぐり抜けるようにして、現場に立ち、遭難者の魂と向き合い、父の痛恨の思いを直接伝え、冥福を祈ったのである。
宏さんは、渡辺校長が仙台二中在職中に生まれた、仙台っ子であることも、蔵王参りを思い立たせた理由になっているかも知れない。
宏さんは、神奈川県厚木市在住で、今年87歳になるが、時おり、柏崎高の在京同窓会の皆さんと、お酒を酌み交わし談笑するほど、お元気だそうだ。
そして、高齢にもかかわらず、今年中に4度目の蔵王への慰霊登山をしたいと、計画を練っているとも、聞いている。
私は、このレポートを柏崎高校側の資料と証言を中心に構成した。
仙台二高側では知られることがなかった、渡辺校長の離校後の消息と、その志を継いだ遺児の慰霊の蔵王参りが、柏崎高校側で、いまだに語り継がれている現実に、心を震わされたからである。
この秘められた遭難余話を、仙台二高の学校関係者や遭難者のご遺族に、ぜひ、お伝えしたいと思ったからである。
一方、今度は遭難当事者、仙台二高側の100年史や同窓会報に記載された以外の資料、証言、エピソードを集めることができれば、それを柏崎高の同窓の皆さんや、渡辺校長のご遺族にお伝えしたい。
渡辺校長が抱き続けた鎮魂の気持ちに応える意味でも。
心当たりのある方は、連絡願いたい。
そして、せっかく結ばれた柏崎高と仙台二高が、悲しみを乗り越えて交流を深めることができれば、と願っている。
事情が許せば、遭難余話の語り部である三男、宏さんから、自らの心象風景をうかがうのも、いいかも知れない。
何か、いい方策はないものか?まずは、仙台二中、二高の同窓の皆さんに、ボールを投げたい。
いい知恵が浮かんだら、返球していただきたい。
意見、感想も、お待ちしている。
以上、拙文のおつきあいに感謝し、筆を止める。
Email:chiba.hideyuki@mx9.ttcn.ne.jp
千葉 英之 (仙台二高4回卒)
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