[一]はじめに
母校仙台二高の校地周囲の蒼古亭々たる大樹の連なりには、緑化に心血を
注ぎ続けた先人の思いが溢れ、風格ある伝統を覚える。
特に正門両側の校舎南前庭には、胸高直径65〜80センチのヒマラヤスギ、
60〜75センチの欅、60センチ前後の銀杏、柳、みずき、ヒッコリー、
染井吉野、桂、50センチ前後の赤松、紅葉楓等が林立し、外にメタセコイヤ、
伊呂波紅葉、児手柏、ドウダンツツジ、金木犀、山茶花、馬酔木、月桂樹、
伽藍木、榎、椿、黒松、珊瑚樹、百日紅、山吹、伊吹、蘇芳、青桐、ツツジ、
犬黄楊、藤、木蓮、クルミ等が沢山の大樹の間に所を得て繁茂している。
この鬱蒼とした樹林は、単に春夏秋冬の風趣ある景観を展示するばかりでなく、
正門前を頻繁に疾駆する車の騒音を吸収し、ほとんど消してくれる。また、
二高の重厚で落ち着きのある校舎を外部に剥き出しに誇示することなく、
錦衣を着た奥方がうすぎぬを纏い絢爛を包み隠すに似た働きを持ち、更には
青葉山一帯の風致地区の一翼を実に見事に担い校歌の二番の詞どおりの
教育環境を形成する。
このかけがいのない万緑の財産形成の歩みを辿り、先人の教育環境整備に
腐心された英明に思いを馳せ、その恩恵に浴する幸せを後人たる私共はよく
噛みしめたいものである。
[二]共同園記碑
校地の東南、講堂の南側に食堂が建っている。その食堂入口左側に
「清香苑」と名付けた二高八景の一つがある。幹が朽ちてがらんどうになった
梅の老木が今でも清楚な花を咲かせ、ほのかな香りを漂わせている。その梅の
木の陰に、高さ2メートル程の、稲井石でできた「協同園記碑」が建っている。
明治四十一(1908)年十月四日、北六校舎時代に、皇太子殿下
[後の大正天皇]が、東北行啓の折、二中に御来駕、三角術・博物学・英語の
授業のほか、道場で行われた撃剣の訓練や講堂での生徒作品を、更に
行啓記念にと学校挙げて迎賓の心を傾注した花園「協同園」を御満悦の
裡に御覧になったという。
翌年、創立十周年記念・皇太子殿下行啓記念事業として植物園の設置、
協同園の拡張、協同園記碑の建立が行われた。
碑文の作者は二松学舎大学創設者、三島毅(中州)。
三島は当時高名な漢学の大家であった。
新潮日本文学アルバム「夏目漱石」によると、府立一中(日比谷高校の前身)
に進んだ漱石が、三年で退学し、三島の二松学舎へ移ってしまった。
漱石は、当時漢文が大好きで、英語は大嫌いであったための転校だと伝えている。
漱石の漢詩に対する造詣の深さはこの三島の教えに負っている。
建碑式報告の記録によると、生徒・職員・同窓会・学友会・創立十周年
祝賀会より、二八六円余の総収入を得た。支出内訳として、まず記念樹代・
周囲石や芝代・土盛り地ならし植木などの人件費として一六一円余、
次に碑石代・撰文者筆者謝礼・石工料・建方土盛り人件費・その他雑費として、
一二五円と記録されている。東宮侍講で漢文の泰斗でもあった三島に
撰文(文章作成)を依頼したところに大変な心遣いを覚える。
この記碑は昭和三(1928)年の校舎移転の際に川内の現在地に移された。
北六校舎時代の二中緑化の歩みの中でも特筆すべき動きであった。
[三]二中八景
昭和五(1930)年十月三十日、全国各地において、教育勅語渙発四十年の
記念式典が挙行されたが、本校でも文部省の通牒により記念式を挙げた。
更に記念事業として生徒一人十銭の醵金による記念植樹を行い、中国の
「瀟湘八景」、我が国の「近江八景」・「金沢八景」に因み、「二中八景」を
定め、「白雲崖」・「春風渓」・「萩花原」などと命名し、その名を
刻んだ小石柱を建てた。
八景それぞれを河合絹吉校長が和歌や漢詩に詠み、美術の野村房雄先生が
絵に表した合作の折本。緞子張りの表紙の付いた立派な製本で同窓会資料室に
大切に保存されている。「蔵王池」に関する和歌一首を紹介すると
花紅葉蔵王が池の水の面を
その折々の色にそめけり
この記念事業によって校内の美的緑化が一段と推進され、今日の二高庭園の
原形が形成されたものと思われる。
応援で、祝勝の凱歌「暁かけて匂うなる 桜の花に武士が ひそかに秘めし情こそ
我が若人の精神なれ 五城楼 春の月 清きかなその光」を高唱するとき、
「白雲崖」の名にふさわしい絢爛華麗な桜花の雲海をみせて誠に健気である。
老木の間に跡目をしっかりと継がそうと若木を植え込んだ。幸い根付きも
良いようだ。
創立百周年記念事業(渡邊義之校長)の一環として、前倒し事業として
植樹された。
年毎に腐朽してゆく桜の老樹を見ては堀田同窓会会長が長年懸案としておられた
もの。「白雲崖」の寿命は、更に100年ものびた。
(以下 次号に続く)