最近、私が担任した学年の卒業生が二高を訪れてくる。懐かしい話とともに、
就職活動や大学生活の話になることが多い。
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当然と言えばそれまでだが、大学に入学した頃は、高校での勉強との目的と
質の違いに、最初は戸惑いも感じたようである。勉強する目的で大学へ進学
したのであるが、改めて勉強する意味を考えさせられたという。高校までは
勉強といえば、「試験のための勉強や進学を目的とする受験勉強であった。
理解することより覚える方に力を入れた勉強であった。」という。
大学進学を目標に掲げ、入試対策が優先される切迫した状態に置かれる限り、
この勉強法を強いられるのが現実であろう。
だが、確かに、高校と大学との勉強とでは、その目的により、方法と違いは
あるのだろうが、「学ぶ」姿勢には変わりはないはずである。
その「学ぶ」ということについて、ノーベル化学賞受賞者である福井謙一
先生は、論語の一節を例にして、「学問の創造」の中で次のように述べている。
「(学びて思わざれば、即ち罔く。思いて学ばざれば、即ち殆し。)短い
言葉であるが、広く一般に何が大切であるかということをこの言葉は物語って
いる。
学ぶということ、それは対人関係や自分自身の経験、あるいは先人の
知識からの情報の収集と蓄積ということであろう。しかし、それだけでは
学問を照らす光が十分に発してこない。何が欠けているか。それが、思う
こと、思考・思索である。思うということは、一定の前提から結論を導き出す
のである。しかし、頭で思うだけで学ばないのは、独りよがりの結論を出して
しまう危険がある。それゆえ、学問には、学ぶことと思うことがともに備わって
いなければならない。」
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現代は科学技術が高度に発達する一方で、職人の血の通った仕事や作品に
限りない人間味を感ずる時代になった。人を魅了してやまない作品は材料・
道具・技と心が一体となってはじめてできあがる。
人間を例えとした場合、自然最高の作品ともいえる人間が、オートメーション
の流れ作業のような、あなた任せの出来ばえでよいはずがない。人間こそ、
学ぶこと、思うことを通した、自らの手作りでなければならない。諸君も
自分自身をりっぱな作品に仕上げてほしい。
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